啓蒙の終焉

いまだ、啓蒙の定義を知らず。

もともと、ひとは正解というものを持っていて、それが先生や書物、それに観察により啓(ひら)かれる。仮に、啓蒙をどういうふうに、とらえておこう。

啓蒙は、ヨーロッパで生まれたコンセプトだとおもう。

啓蒙以前のヨーロッパの解は、王様や聖書の中にあったにちがいない。

だから「それでも地球はまわっている」といったガリレオ・ガリレオは、大査問会にかけられて、軟禁の人になったわけ。聖書に書いてもいないことに、真理はないといったふうに。

ちなみにガリレオが「それでも」と言ったのは、後世のひとが作ったストーリィであるというのは、定説である。

ま、ガリレオや、フランシス・ベーコンが「暗黒時代」から「啓蒙の時代」に移行する時期の人物だとして。げんざいは、それから400年くらい、たっている。

前置きがながくなってしまったけれど。このような壮大な例をひもとき、なにを言いたいのかというと、げんざいは、「啓蒙の時代」が終焉し、あたらしいモードに入っているのではないかと、おもっているわけネ。

つまり、もう、ひとの中には解が内在していないことがバレてしまった。

だからドナルド・トランプが米大統領に選ばれるし、SNSによる共感が、大きな力を持つようになってきているんだとおもう。正解ではなく、仮説の重要性が言われるようになったりもしている。

一方、正解というか、ものごとを認知するのは、なにも人間だけでなく、ケースにより、AIの認知能力の方がすぐれていることもバレつつあるとおもう。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!