「海辺のカフカ」

「海辺のカフカ」を再読した。

エディップス・コンプレックスから解き放たれていく教養小説。

けれどフロイトを読んだことはなく、ましてや、その仮説の名前の由来になっているエディップス王の物語(ギリシア神話)も読んだことさえない。

漱石なら、よく読んでいる。

なので、漱石の小説と比べながら解説したい。

「カフカ」の会話の中で、「三四郎」と「坑夫」が出てくる。

登場人物たちは、こんなふうに語る。

「三四郎」は出会いや出来事により成長していくけれど、「坑夫」では、主人公は炭鉱での体験の前も後も変わっていないよね。

この会話から察しても、「カフカ」は教養小説である…

と言いたかったのではない。

そもそも教養小説と言いながら、ゲーテもトーマス・マンも読むわけもない私。

えーと、「カフカ」と、漱石の「こころ」との違いについて触れたかったんだ。

見ず知らずの第三者からみた悪であっても、当人がストーリィを語り、さらにそれを読んだ人にとっては、第三者が思うようなものではないと、漱石は考えていた。

また当人にとっても、それを読んでくれる人がいることで救われる。

「こころ」の後半の先生の独白、先生が手紙を書き、それを主人公の私に読まれること、それは救いである、と、まぁ、そんな感じ。

一方「カフカ」でも、佐伯さんも失われたストーリィを、書きつづっている。

しかし佐伯さんの場合、先生とちがい、後に残さなかった(ナカタさんに残さないように依頼し、ナカタさんは、それを火に焚いてしまった)。

「カフカ」の引き継ぎは、「こころ」のように手紙を通じてではなく、メタフィジカルな場所で行われていくんだね。

ちなみに、現実とメタフィジカルの世界がパラレルで進む村上春樹の小説は、他にもみられたりする。

善悪を超えた不可思議。文章により明示化された引き継ぎと、メタフィジカルな引き継ぎ…深いなぁ。

「カフカ」には、同じ言葉が2回出てくる。

それに触れたとき「あ、いい言葉だなぁ」と思い、付箋を貼り、ストーリィが終わりに近づき、また同じ言葉が出てきたとき、「あ、おれ、いい読み方しているかも」と思ったりした。

「あなたさえ覚えていてくれたら、ほかのすべての人に忘れられてもかまわない」

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!