未知のことをやることについて

既存の仕組みがある。そして、そのなかで、くらすひとがいる。

それは空気のように自然だ。ふだん意識していないけれど、その仕組のおかげで、くらしは、そうとう助かっている。

しかし時とともに、暮らしは、きゅうくつになってゆく。

いままでお世話になってきた既存の仕組みは、逆に、くらしの妨げになってくる。

そして、そのころには新しい仕組みが芽生えていて、だんだん育ってゆく。

かくして仕組みは相対化され、既存と新規は競い合うことになる。

このばあい、既存の方が優位だ。

既存派は、いままで経験してきたので、それだけに確かさの実感がある。

新規派は「ほんとうに、これから、そうなるの?」と問い正されると、たとえ将来価値を数値で表すことをが出来ても、内心は「いやぁ、自信がないんだよねぇ」と、まぁ、そんなかんじだとおもう。

それに対して(既存派の確信に対して)新規派は、言葉だけではなく、できることを着実に行ない、かたちにしたり体験してみせることが、とても大切だとおもっている。

お金が合理性を促す

新聞というものは、被疑者の段階で、事件の大見出しをつける。

それを見た読者は、被疑者を犯罪者とおもってしまう。

そもそも公務員には業務の秘守義務が課せられている。

検察といえども、マスコミに捜査情報をリークするのは法律に触れている。

検察の誤りで起訴された元厚生省の村木さんは、その点を裁判で争ったけれど、(リークした証拠がないため)証拠不十分で却下されてる。

いわゆる「ライブドア事件」の報道は、とても加熱していた。本人への事情徴収だけで、新聞の一面に見出しは踊った。

それは、「お金で買えないものはない」というホリエ氏のコトバの流布も遠因だったかもしれない。

個人的にホリエモンの本はけっこう読んでいて。それらしき文に触れると、そこだけ切り取られ、独り歩きしているようにおもう。

げんざい「会社の値段」(森生明)を読んでいる。

ホリエモンの「お金で買えないものはない」について、いままでうまく言えなかったことが、本書ではとてもうまく解説されている。引用させていただこう。

「(お金を尺度にすることによって)不合理さが数値で表現され、フェアな競争のベースができるようになります。差別のある世界は、それがない世界(お金を尺度にしない世界)より無駄が多くなったり理不尽なことがまかり通ったりします。ものに値段をつけて売り買いの実態を明らかにすることにより、その不合理な現実が他人の目にもはっきり見えるようになる、不当なことがやりにくくなる、その効果が重要なのです。時間がたつにつれ、差別のない社会のほうがより活力のある魅力的な社会を生み出す、それは経済成長率や国内総生産(GDP)のような金額と数字で客観的に比べ得られるとうになる、それがフェアなやり方だという堀江社長のご意見はもっともだと思います」(P29)

司馬遼太郎さんによると、江戸時代の合理性は商品経済により促されたそうである。類似している視点だよね。

自由にことばを発すること

「まいにちブログを書いてるねぇ」と言われることがある。それ、せいかくにいえば、ほぼ毎日だけどま、ほぼ毎日書くことが、たいへんだと、おもわれていたりして

たしかに、それを目標にしていたなら、たいへんであるさすがに、つづけられない。

では、なぜ、ほぼまいにちブログを書くのか..?

それはアタマのなかに靄(モヤ)が発生するわけで。もう、それを吐きださずにはいられない。たまたま吐きだす方法が文章を書くことだったりするわけ。

なので、ブログで、あえてなにかを伝えたいわけではない。そもそも、個人的に、何かを伝えたい気持ちが薄い気さえする。

広告の文章を書くにあたり、はじめに教わることは、訴求対象を決めて書くことである。

訴求対象は英語が日本仕様に訳されたコトバで、原語ではTargetだとおもう。要は、購入する属性をイメージして、コピー・ライティングせよというかんじ。

ただ、じっさいには、ターゲットどおりにズバリ伝わるということなどありえない。じつは(おおきな声では言えないけれど)実務的には、あてずっぽうなのである。むしろ、新聞や雑誌といった媒体側のチェックを気にするケースが多い。

連邦議会によるアメリカ大統領選挙の結果承認が126日に行われた。選挙の不正を訴えるトランプ大統領は、議会開催に合わせホワイトハウス前で演説を行なった。そして演説中の言葉を議事堂への乱入ととらえた一部の群衆は、それを実行した。

議事堂の乱入を受けて、Twitter社はトランプ大統領のアカウントを一時停止した。そしてその後、それを永久停止した。

トランプはひんぱんにツイートしてきた大統領だ。それがツイート=つぶやきを示すものなのか、あるいは公的に訴求したいことなのか、個人的にはその一線があいまいだったとおもう。マスメディアからSNSに軸が移行している現在、そのへんは、もっと整理されてしかるべきだ。

YouTubeでケント・ギルバートさんが、こんかいのアメリカの国会議事堂乱入事件をうまく整理されていた。民主主義というのはコトバで言い合うもので、そのあとはルールに従い決着されるものである。なので国会議事堂への乱入は民主主義的ではないという。

いぜんNetflixでレーニンのドラマをみた。そのなかではレーニンの暴力革命も描かれていた。それも、考え方のひとつだろうけれど、個人的にはやはり民主主義が好きである。

それだけに、こんかいのアメリカの暴力的な国会議事堂乱入は大きな問題だとおもっている。

そして一方では、Twitter社によりトランプ大統領のアカントが永久停止され、次善策として利用されたTwitterではない他のSNSアプリが、こんどはiPhoneAndroid機からダウンロードできなくなり、さらには当該SNSのアプリ以外のブラウザーでも利用できなくするように、アマゾンはAWSの利用を停止した。

ひと握りの大手テック企業により、ひとりの言論空間(トランプの発言)を封鎖できてしまう。こちらも大きな問いを残したとおもう。