Gitがbranchしてしまった件


GitHubがコンフリクトしてしまった件について、先のブログで書いた。

原因は、ローカルとリモート両方で、コードを追記にしまったことにあり、とした。

経験不足のおかげで、そのことが直接の原因かどうか、いまだに自信がないけれど、

(幹のようなイメージである) Masterに対し、(枝のようなイメージの)Branchを、なにかゴチャゴチャやっているうちに、作成してしまっていたことは、判明した。

で、これサ、ターミナルでの操作、つまりコマンドラインだけでは確認できなかったわけよ。

Sousetree(GitをCUI化されるアプリ)で視覚化できたことで、はじめて確認できたんですねぇ。

以下、青いラインがMaster、赤と黄色のラインがBranchを示している。









コンフリクト

GitHubを、便利につかっている。

しかし、前回使用したとき、コンフリクトを起こしてしまった。

その原因が、わかったよ、たぶん。

それは、リモート(Git Hub)上のリポジトリーのソースコードを修正し、

さらにローカル(じぶんのパソコン)上のリポジトリーも、いじってしまったことによる。

ちなみに、コンフリクトを起こした際には、ネット上で、それを解消するコマンドを見つけ、あれこれやったりして、かなり、たいへんだった。

作業が複雑になってしまうことは、筋が悪いだよなぁ。

技術のクリエィティブについて

プログラミングでも、なんでも、いいや。

エンジニアにとって、そのおもしろさは主観的なものなんだと、おもう。

客観的な、おもしろさでは、ないんだね。

両者にとって、おもしろいこと、それが共感なんだと、おもう。

そして、それについて、汗をかくことがクリエイティブじゃないのかねぇ。

それが、ぜーぜん不足しているため、画期的といわれるディープラーニングも、ブロックチェーンも、よそ行き顔になってしまっているわけで。

分野によっては英語直の方が良いだろう

図書館に行ったついでに、コンピュータに分類されている棚の前に立ってみたまえ。

その関連書籍の多さを、いちべつ、できるだろう。

そして思うままに手にとって、ページをめくってみれば、すでに過去のものである情報の、その多さに気づくだろう。

とくにライブラリーをつかうチュートリアル系の書籍は、1年もすれば十分に古い、と言える。

それだけライブラリーのバージョンアップは目まぐるしいわけで、

そうなると、チュートリアルは、書籍よりネットで調べた方が有効な場合が多い。

そして、いちばん充実しているのは、そのライブラリーが主宰するウェッブサイトだったりする。

日常は日本語で囲まれているので、私たちは、世界が日本語で語られたり、語ったりしていることに、なんの疑いも持たないけれど、

プログラミングの世界を俯瞰してみれば、いっそ、全部と言ってしまいたいほど、英語で語られたりしている。

おっ、ハナシがそれてしまった。

要は、ネット上のライブラリーを主宰するウェッブサイトは、いっそ、英語と言い切って良い。

ウェッブサイトの日本語化を待ったり、さらには書籍として出版化される頃には、ライブラリーはアップデートされ、すでに日本語化された情報は有効でなくなってしまうことも多々ある。

ライブラリーについて、ウェッブサイト上で日本語で質問して、答えを待ち、さらに質問する手間を考えたら、英語でも良いから、直接、ライブラリーの情報をチェックした方が効率的だと思うけれど、そのへん、どうだろねぇ。

統計問題?

「統計が最強の学問である」や「探偵 ジョン・スノウ」は良書だとおもう。

そして、この2冊を読んだ影響で、読了後前に比べ、「統計は大切みたいよ」と言えるようになった、とおもう。

数字もそうだけれど、統計など抽象化されたものが、なぜか現実の問題を解決する有効なツールになっていたりするんだなぁ。

厚労省の統計のあつかいの話題が、マスコミやネット上で、さかんに取り上げられている。

これ、どうなんでしょ。

そもそも、現実にピタッとあう統計はないでしょう。精度というか、現実に合う確率を上げる統計手法を求めるべきなんだろうとおもう。

官僚の発言を聞いていると、まずは、統計に100%の統計を求め過ぎやしないかと、まぁ、そのような感想を持つわけ。

そして精度を上げるために手法を変え、従来の統計との連続性が担保されなくなった、というんでしょう。

そこが、たぶん問題の焦点で、政府・官僚は精度を上げるためであると主張し、

一方の野党は、いわゆるアベノミクスの成果を強調するために、恣意的な統計にしただろうと主張している、とおもう。

ま、これは、堂々めぐりで終わるんだろうねぇ。

情報の「マッシュアップ」化

「印刷は2周遅れ、ウェッブサイトは1周遅れ」などと言って、ひんしゅくを買っていたりする。

まずコンピュータによる情報のマッシュアップ化について語ろうか。

なじみのない英単語に触れたとき、英英辞典などを引き、元のニュアンスを確かめるのは、悪くはない方法だとおもう。

がしかし、さいきん、そういうのメンドーなのよね、

ということで、おもいのままの例をあげてみようか。

いままで2、3回くらいしか食べたことがないけれど、マクドナルドに、マッシュポテトという食べ物がある。

じゃがいもを、こまかく刻んで、コロッケ状のカタチにしたものだ。

マッシュアップの、マッシュは、この「こまかく刻んだ」というニュアンスだとおもうんわけ。

「容易にコピーできる」とか、データベースがあれば「検索しやすい」とか、コンピュータにはいろいろな有用性があるけれど、この「マッシュアップ化」も、そのひとつだとおもったりする。

まったく新しいものは、当初は、旧来のものとカタチが似ているという説がある。

ウエッブサイトなんて、そうだよね。「情報がベッタと」貼られている感じは、新聞や雑誌と良く似ている、

けれど、時間がたつにつれ、それはコンピュータやインターネットの本質に近づいてきた。

情報が「マッシュアップ化」されてきている。

たとえばツイッターやインスタグラム、たとえばTikTokというふうに。

これからディープラーニングやブロックチェーンは、もっと応用されていくとおもう。

これも、情報が「マッシュアップ化」されてしまった処理のひとつの解決策と言ってもいいとおもうんだ。

「クリエイテイブな仕事」と「デザイン思考」

 

「クリエイティブな仕事」や「デザイン思考」というコトバに触れることがある。

デザインも、クリエイティブも、じつは広告制作で、よく使われるコトバだったりもする。

それが、まるで倍音のように、一般にも使われはじめているんだ。

「クリエイティブな仕事」というコトバは、これからのAI社会に対する、ひとつの答えを示唆しているとおもう。

それは「じぶんで仕事をつくっていくことが、仕事になってゆく」ということだ。

一方の「デザイン思考」ってなんだろう。

一時期、ロジカル・シンキングというコトバがはやったらしい。

それについて、なにも知識がないわけだけれど、文字ズラから「これは、こうだから、こうだろう」と理屈で考える方法と、まぁ、そういうふうにしておこうか。

ところで、マリオ・ブラザーズをやったことが、あるだろうか。

このゲームの開発には、おもしろいエピソードがあるらしい。

あるとき、任天堂の社長が担当者を呼んで「予算がないけれど、ヒットするものを作るべし」と命令した。

そこで、担当者は、「なにかわからんけれど、ひげのオッサンをジャンプさせようと」思いついたらしいんだ。

本田宗一郎は戦後、パタパタというバイクを作った。それは「うちの、おかあちゃんが移動に困っていたからねぇ」なのである。

これは理屈ではないんだね。単なる思いつき。なんてことはない。「デザイン思考」って、こういうことを言うんじゃない ?

フレディ・マーキュリーなんて、まさに「クリエイティブな仕事」「デザイン思考」でしょ。

ユーザーが先生なのだ

AIの先生は誰だろう。

少なくともグーグルにおいては、先生は、ユーザーということになりそうだ。

グーグルアシスタント、つまり「オッケー、グーグル」により、グーグルはデータを収集しているけれど、逆にいえば、これは世界中のユーザーがグーグルアシスタントに、言葉や文脈を教えさせられていることになる。

グーグルフォトの機能として、さいきんiPhoneでも、グーグルLensを利用できるようになった。これにより写真から、そこに写っている対象物の名前が分かるようになった。ようやくディープラーニングが、身近に実感できるようになった。こちらも、グーグルがデータを集めている反面、写真を提供する世界中のユーザーが、しらずしらず先生役をやらされていたりする。

こういうこともあり、グーグルがAIに力を入れはじめたのは、音声、視覚ということで、わりと最近かな、と思いがちだけれど、

じつは、検索エンジンでは、すでに同様のことをやってきたと思うわけ。

ユーザーが検索するたびに、グーグルの検索エンジンは、かしこくなってゆく、みたいな。

ぼくは「Wired」という雑誌のファンである。

創刊者のケヴィン・ケリーは自著の中で、次のような話を紹介している。

「ラリー(ラリー・ペイジ/グーグルの創始者)、いまだによく分からないんだ。検索サービスの会社は山ほどあるよね。無料のウェッブ検索サービスだって? どうしてそんな気になったんだい?」

(中略)

「僕らが作っているのはAIなんだよ」

これは2002年のパーティでの会話、当初からAIを作っていたという逸話。

「<インターネット>の次に来るもの」(ケヴィン・ケリー/ 服部 桂訳)より

間伐とか植樹とか

間伐は、なぜ温室効果ガスの吸収に貢献するんだろう。この際、林野庁のウェッブサイトを参考に、まとめておこう。

間伐とは、古くなった木々を間引きし、森林に余裕を持たせることだ。

これにより、森林の中に陽射しが入り込み、新しい木々が育ってゆく。

新しい木々は、古い木に比べ、幹・葉・枝が盛んなので、それだけ、温室効果ガスをよく吸収する。

次に、間伐による森林が、下流の水害のバッファになることを言いたいけれど、残念ながら、いまのところ、林野庁のウェッブサイトから情報を見つけることができない。

ただ推測はできる。

新しい木々は、根に水分を多く吸収する(ほんとうか?)

とりわけ大雨が降ったときなどは、根が水分を元気に蓄える(ほんとうかなぁ)

ま、もともと木々というのは、よく分からない。

森林土壌の保水効果には限界があり、水害が発生する際の強い降雨や断続的な降雨では、その効果は十分に期待できない。「緑のダムの科学」より

いぜん東北地方の、被災にあった地域に、植樹のボランティアに行ったことがある。

被災地の植樹では、その土地固有の、ほんらいなら植生する木々の苗が選りすぐられていた。

ボランティアにあたっては、旗振り役の宮脇昭さんの自然植生についての書籍を何冊か読んだけれど…やはり、どうしてそんなことが分かるんだろう的な気持ちも残りながらも…「ええい」という感じになり、参加したっけ。

もっとも宮脇さんというか、先生は、イオンの植栽を指導して来られたり、万里の長城をはじめアジア各国の植樹を指導されきたりして。そうとう実績のある方だけれど。ボランティア当時、80歳を越えていたのに、かくしゃくとしていらした姿が思い浮かぶ。

 

理念について

ビル・ゲイツは、本をたくさん読むそうである。

ネット上で、ゲイツのおすすめの図書という情報に出遭うことがある。

2冊ほど読んだことがある。

「コンテナ物語」では、規格の同一のコンテナを列車からそのまま船で輸送する、物流の革命を知った。

スティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」では、世紀単位の長いスパンで見た場合、暴力による死者数は、むしろ減少していることを知った。

ちなみに「暴力の人類史」は高価な書籍だ。なので図書館からお借りして読んだ。手元に本書がないため、以下、記憶と僕の主観により書きつらねてゆくことになる。

普遍的なことも、普遍的でなかったりする。

たとえば民主主義は、所与のものと思いがちだ。

けれど、少しでも歴史の本を読めば、民主主義はわりと新しいものであることに気づく。

なにも歴史をたどらなくとも、現に民主主義ではない国は存在するし、民主主義を旗印にしている国も、そうでなくなる可能性もある。

要は、民主主義は、確固たりえるものではなく、ひとつの理念なわけネ。

あやふやな理念なんだけれど、それを言いつづける人たちがいて、少しづつでも政策にも反映して、民主主義というカタチになってきたんだと思う。

公民権やフェミニズムも同様だ。

「暴力の人類史」では、民主主義やフェミニズムといった理念がかかげられ、それが育っていったことにより、暴力による死者数が減少していったと、まぁ、そのようなことが書いてあったと思う。

理念を持ち続けることは、なにげに大切なのかも知れない。ただ、それは現実とは相反することが多々ある。なので両方、大切だということになりそうだけれど、ねぇ。

ところで、相反する言葉として、「論語と算盤」という言葉を目にしたことがある。

たぶん、これは渋沢栄一の「論語講義」の中の一節を、誰かがキャッチフレーズにしたんだろう。

ダライ・ラマは現実レベルのことを「粗いレベル」としている、かな。

もっとも、ここまで来ると、現実と理念を相対化するのではなく、真理として語られているんだろうかもです。