村上春樹の小説は、最新作と、もう一冊を除いてすべて読んでいる。そのなかでも、影響を受けたといっても良い長編がある。そのタイトルは秘密です。

漱石の著作も好んで読んでいる。繰り返して読んでいる小説もある。その中でも、いちばん多く読んでいるのは「こころ」だ。

「こころ」は暗くて読めない。そういう意見がある。信頼する友人や、ネット上で見た好きな作家の意見も同様なので、つい耳を傾けてしまう。

ぼく個人の感想としては「そんなに暗いのかなぁ」という感じだ。きっと「暗さの閾値(いきち)が広いんだな、オレは」とケムに巻いたような言い方をしてしまったけれど、要は、わたしは一般より根が暗いようです。

ちなみに村上春樹の最新作は、漱石の「草枕」に触発されている。作者本人が、なにかのインタビューにこたえていた(とおもう)。宮崎駿も「草枕」が好きらしい。

村上春樹の「多崎つくる」は、漱石の「こころ」の約100年後の小説だ。

漱石はエゴを描いた作家だと言われている。たしかに、そうだとおもう。だたし、エゴがモダンに描かれている。

ここで言うモダンとは、じぶんに中心があるというニュアンスだ。状況が変わると、その中心が、おびやかされる。状況によって振り回されるじぶんは、つねに不安だ。

それに対して村上春樹の描くエゴには、中心がない。状況に応じてエゴも変容してゆく。小説によっては、主人公が別の人格になってしまう。「海辺のカフカ」とかネ。これなんか、その中心のなさが明示的に描かれているとおもうよ。

ただし、村上春樹の小説は、中心がないままなのかと言われると、そうでもない。最後には、その中心のなさに耐えられなくなり、ぶり返しがやってくる。

デビュー作の「風の歌を訊け」のラストシーンでは「ぼく」は波止場で泣き、「羊をめぐる冒険」では「ぼく」の分身である「鼠」と、「ぼく」は会話せざるを得なくなり、「多崎つくる」では…って、ま、いっか。

いずれにせよ、漱石から1世紀を経て、エゴのアプローチも違ってきているような気がするんだよなぁ。