エゴ

漱石と村上春樹は小説を通してエゴを描いてきた。そうおもっていた。けれど、ちがうアプローチの読み方もあるかもしれない。

ちなみに漱石のその描き方はモダンだとおもう。

ここで言うモダンとは、じぶんでも、こころでも、エゴでもいいや、まぁ中心がデンと存在するというイメージだ。そして中心からはずれていくことで、主人公たちは煩悶する。その離れ方は倫理といっても良いかもしれない。

一方の村上春樹のそれには中心がない。小説によっては、カフカ少年のような(別の人格が殺人を犯し、本人はそれを覚えていない)ドッペルゲンガーさえ描かれている。

ただし、多くの主人公たちは、その中心のなさに耐えられなくなってしまう。あるときはラストシーンで波止場で嗚咽し、あるときは鼠を探しに北海道まで行き、あるときはフィンランドまでクロに会いにいかざるを得なくなる。

個人主義

えー、前置きが長くなってしまいましたねぇ。

漱石と村上春樹の小説には、エゴ以外のアプローチもあるというハナシであった。

たぶん啓蒙(けいもう)という言葉の使い方でいいとおもうけれど。

漱石は、ぼくを啓蒙する。「漱石式」の個人主義についてネ。

とくに後期の小説では、エゴと同様、漱石の個人主義について触れることができるのだが、そんなことは分からない、ただぼんやりしている人は、ご一読あれ、(漱石の学習院での講演録である)「私の個人主義」を。

ま、いい機会なので要点の箇所を抜粋しておこう。

「どうしても、一つ自分の鶴嘴(つるはし)で掘り下げる所まで進んで行かなくてはならないでしょう。行けないというのは、もし掘り中(あ)てることが出来なかったら、その人は生涯不愉快で、終始中腰になって世の中にまごまごしていかなければならないのです」

「仕事をして何か掘り中(あ)てるまで進んで行くということは、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違いませんが、何故それが幸福と安心とをもたらすかというと、貴方方の有って生まれた個性がそこに打ちかって始めて腰がすわるからでしょう」

「僕は左を向く、君は右を向いても差し支えないくらいの自由は、自分でも把握し、他人にも附与しなくてはなるまいと考えられます。それが取りも直さず私のいう個人主義なのです。金力権力においてもその通りで、俺の好かない奴だから畳んでしまえとか、気に食わない者だからやっつけてしまえとか、悪いことではないのに、ただそれを濫用したらどうでしょう。人間の個性はそれで全く破壊されると同時に、人間の不幸もその所から起こらなければなりません。」ま

 

暴力性

「暴力の人類史」(スティーブ・ピンカー)という書籍がある。時間がとれなくて、下巻の途中のままである。かなり良書である。ここ2、3年で読んだ中でベスト3を上げろと言われれば、「曽根崎心中」(近松門左衛門)、「インタビュー」(木村俊介)、そして本書をあげたい気分だ。

本書を読みながら、ふと村上春樹が頭に浮かんだんだネ。

「僕は暴力性について書いている」という記事を読んだ記憶があるし、その記憶から、村上春樹は暴力性について善悪ではなく、違うアプローチで書こうとしているのではないかと思ったわけ。

この点、もうすこし、突っ込んで考えてみたいけれど、現状ではムリだなぁ。深掘りできんわ。