演繹と帰納

明治になり、西欧から不明な、いろいろなコンセプトが入ってきた。

先達たちは、漢語や仏教語から、当て字を創作した。

自由、民主は当て字である。科学、宗教だって同様である。

演繹など、キーボードで打たなければ、書くことさえ出来ない。

ちなみに演繹という言葉は(森鴎外の叔父である)西周の発案だったとおもう。

演繹は原因/結果の因果関係を考える手法だ。

ま、落語にある「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアプローチである。

それに対し、帰納は逆に、結果から原因を考察する。

つまり、相関関係(似ている感じや、違う感じ)を観察し、原因を考える手法である。

ベイスの定理は、帰納的な手法と言って良いとおもう。

たとえば、a、bふたつの袋の中に、それぞれ赤と青の異なる数の球が入っている。

観察者にはaかbどちらの袋から球を抽出したか知らされていない。

そのうえで、青、青、赤、青の球が抽出された結果を知らされる。

さて、この結果が反映する「a、bそれぞれの袋である」確率は、どのくらいか。

高校の数学では、サイコロを振って目の出る確率を求めるでしょう。

これは、サイコロを振る(原因)/いくつの目が出た(結果)から確率を得ている。

こちらは演繹的なアプローチ…だよね?

これで、良いっけ? もし間違っていたり、意見があったら、どしどし意見をください。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!