信じるということ

 

取材は予備知識なしでも、まま、できてしまう。

さしつかえがあるので具体的には書かないけれど、取材対象が目に見えるばあいである。

逆に抽象的なもの、そして専門的なものは、あらかじめ知識がないとむつかしい。もし知識がないにもかかわらず、急な取材を頼まれたとき、「できないよ」というのも、十分にアリである。

ずいぶん前、ライターのかけだしのころ、地球物理学の松井孝典先生に取材したことがある。

(いまもそうだけれど)とうじはバカだったので、「まぁ、なんとかなるさ」的にやったところ、まったく分からず、言葉にできないくらいアセった経験がある。

それでも「地球が誕生したときも現在も、水蒸気と水の総量は同じである」という話はおぼえている(記憶ちがいではないことを願っている)。

ところで、地球上の炭素の総量は一定であるという説がある。ぼくは、わりとこの説を信じている。その背景には、松井先生の水蒸気の総量の話が残っていたからだとおもっている。

地球上の炭素の総量は一定である。そう仮定したばあい、大気中の二酸化炭素を減らすには、地球上に炭素を固着させればよい。具体的にいえば木を増やせばいいし、木造住宅を増やしてもよい。

植樹のボランティアをやっているのは、要は、その説を信じているからだ。

「じぶんはバカだから間違ってばかりいる。でも信じることは、じぶんに責任を持つことじゃないか」

なかなか、そこまで強くなれないけれど、敬愛する評論家は、そんなことを言っておった。

 

 

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!