漱石の文京区の坂

 

漱石は、現在の日本医科大学の近くに住んでいた。そのおかげで、小説の中の登場人物たちは、文京区に位置する坂や路を歩くことになる。思い出すままに書いてみよう。

三四郎は、菊人形を見るために、仲間たちと千駄木の団子坂を歩いた。途中で三四郎とミネ子は、みんなとはぐれ、二人きりで歩くことになる。「迷える子羊」なんて言ったりして。印象的な場面だよね。

同小説。三四郎は、与次郎のせいで、みね子からお金を借りるはめになる。後日、そのお金を返そうとするが、「いい」という、みね子。追っかける三四郎。その場所は、切通坂。

「こころ」の先生は、学生時代、伝通院の近くに住んでいたような。こんにゃく閻魔や、現在の小石川植物園を散歩していたんじゃなかったけ?

「道草」で、主人公の建三は、偶然、義父をみかける。あれは、坂をのぼって、本郷通りを曲がったところだったと思う。その坂は、えーと、何ていう坂だっけ。根津神社の表参道側の坂だったと思うんだけどなぁ。

イデオロギー

 

イデオロギーって、なんだろう? 気になるので、ウィキペディアで調べてみた。立場により、いろいろな解釈があるようだ。

そういえば、せんじつ、司馬遼太郎の本を立ち読みしていた際に、「イデオロギーとは」という一文をみつけた。いま手もとにないので、正確な文は分からない。(司馬さんは大好きな作家だけれど)それ以前に、どういうことが書かれていたかも思い出せない。

立花隆のある本を読んでいたとき、「これイデオロギーのことかなぁ」と思ったフレーズがあった。こちらは手もとにある。「正義という概念」。どうだろ。すっきりしているでしょ。自分なりに、もっと語れば「間違っていても、その正義をみんなで信じること」とか、さらには「人にそれを強要すること」とか、そんなイメージかなぁ、オレ的には。

もっとも、こなれていない言葉は使わない方がいいと思うし、ま、そもそも、イデオロギー的なことは、好きになれないわけでして。

「オレ、カレーが好きだよ」「わたしは、キライ」というふうに、対立したときは、好きな人がキライな人にお願いする。それは、言葉でもいいし、お願いした方が、おごるのでもいいし。そんなかんじで、いいんじゃないかなぁ。

Apple Watch

 

ふぁーあ、インターネットもあきてきたよ。ま、でも、まだインターネットの伸び代を期待しているところがあり、「なにかアッという製品が出てこないかなぁ」って、思ってもいたりもする。

Apple Watchは、ネット上の評判をみると、思ったよりよくないねえ。

個人的なことをいえば、げんざい持ち歩いているiPhoneとMacbookAirにくわえ、Apple Watchを手首にまくのは、ちょっと、しつこい感じがするけれど。ま、いずれにせよ、4月にアメリカで発売されれば、詳細はネット上で、その情報を見ることができるので、楽しみにしているよん。

取材について

ともすると、取材は相手におうかがいを立てて、聞きがちだけれど。取材する側が問題を作って、相手に問う方がおもしろいと思う。そうしないと、取材記事を読む方だって、しらずしらず、どこかに書いてあることを、また読むことになってしまうよね。

もっとも、取材を引き受けるばあい、ほとんど発注側から「こんなことを聞いてきてほしい」と言われるので、そのへんがさ、なんというかね。

ま、自分のウェッブサイトに取材記事を掲載していけば、自主的な問いは可能になるわなぁ。

 

 

ほぼ日手帳

 

「ほぼ日手帳 2015年 4月始まり」が届いた。わーい!

 

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いま現在の「ほぼ日手帳」。中身の手帳だけ変えて、同じカバーを2年間、使っていた。(やっていいのかどうか、分からないけれど)汚れたら、石鹸でゴシゴシこすり、水洗いしてて使っていた。その無謀さゆえに、よれよれになってしまったカバーよ。心機一転、カバーも手帳の中身も変えることにした。

 

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今年の春から使う、新しい「ほぼ日 手帳」。ちょっぴり、フェミニンかしらん、と思ったけれど、「ミナ べルホネン」のデザインを選んだ。ちなみみに、「ミナ べルホネン(mina perhonen)」はフィンランド語で、「mina」は私、「perhonen」は、チョウチョウの意味なんだって。

 

 

利他とイニシアティブ

 

友人や知人が亡くなると「からだに気をつけなくっちゃ」と思ってしまう。他の人に「あいつも亡くなったし、お前も、からだに気をつけた方がいいよ」とは、わりとスムースに言えるけれど、「自分もからだに気をつけなくっちゃ」と思うのは、どうも引っかる。ま、いずれにせよ、亡くなった人たちが、現存の人に「お前も体に気を付けた方が良いよ」というメッセージは送らない(と思う)。

で、ここから考えが飛躍するけれど、自分が生きているあいだに、人の役に立っているのなら、亡くなった人たちは「まぁ、いいや」と思ってくれる(ような気がする)。

ただ、ここに世間が入ってくると、ややこしくなってしまう。世間の中で人の役に立とうと決めると、そのことに振り回されてしまうんだね。そうならないためには、自分でイニシアティブを持って考えたり、動いたりする必要が出てくる。他人のことを思うことと、イニシアティブをとるという兼ね合いについて。。。どうだろ?

ティール糸井対談

 

ピーター・ティールの講演がある。そのあと、コピーライターの糸井重里さんとの対談が予定されているだって。(2/20 18:30〜20:00 六本木森ビル)

http://www.academyhills.com/school/detail/tqe2it00000oygve.html

糸井さんは、だいぶ知られていると思うけれど、一方のピーター・ティールって、どのくらい知られているのかしらん。

個人的なことを言えば、ぼくは、紀伊國屋新宿店でたまたま見つけた『ゼロ・ツゥ・ワン』で、その名をはじめて知った。

この本には、数学的な例えで、1からnに対して、0から1を作る意義が語れれている、

といっても、読んでいない人には、なんのことか、さっぱし分からないよネ。はいはい。いい機会なので、まとめておきましょう。

1からnは、既存の製品などをコピーしていくこと。マクロレベルでいうと、既存の成功例が他の地域にも広がってゆくグロバリゼーションとなる。例えば中国がその代表例である。

それに対して、0から1は、それまで誰もやったことにない何かである。当然、今までにないものだけに、想像するのが難しい。

『ほぼ日刊イトイ新聞の本』の中では、糸井さんはクリエイティブの重要性を説いていたように記憶するけれど。ティールの0から1と、糸井さんのクリエイティブがイニシアティブをとる大切さが、どこか、つながっているように思える んだなぁ。ま、とにかく、おふたかたの対談、楽しみにしてまーす!

読書のコツ

漱石は、『世界的青年』(第一巻第一号 / 明治三十九年九月一日)に、『余が一家の読書法』という一文を寄せている。本の読み方について、2つのポイントが書かれている。

 ひとつめ。

本の内容にこだわるより、むしろ、本から受ける暗示こそ大切である。本文の言葉を借りれば「内容以外に何等の新思想や新感想を胎出すべし」ということになる。それは、たとえ本を読了しなくとも、暗示を受けたことがらを、まとめてみると良い。単なる多読は、バカ者である!

 ふたつめ。

ある本とある本の、ばくぜんとして見逃しがちな共通点は、看破すべきである。ただし、意識的に関係を見出そうとすると、形式的・機械的になり、読書が面白くなくなるし、自分の考えに流されがちでもある。「箱庭的」になる。

不案内な言葉を読むコツ

 

なじみのない言葉で書かれている本を読む場合、ポイントがある、らしい。敬愛する夏目漱石と本居宣長は、指摘する。

 

 まずは、漱石から。(『現在読書法』/ 『成功』十巻一号 明治三十九年九月十日 / 『漱石全集 第二十五巻 岩波書店 収録)

 「英語を修むる青年は、ある程度まで修めたら辞書を引かないでむちゃくちゃに英書をたくさん と読むがよい。少しわからない節があって、そこは飛ばして読んでいっても、どしどしと読書し ていくと、ついにはわかるようになる。

また、前後の関係で亀了解せられる。それでもわからな いのは、めったに出ない文字である。要するに、英語を学ぶものは日本人がちょうど国語を学ぶ ような状態に自然的慣習によってやるがよい。すなわち、いくへんとなく繰り返し繰り返しする がよい。ちと極端な話のようだが、これも自然の方法であるから、手あたりしだいに読んでいく がよかろう。

かの難句集なども読んで機械的に暗唱するのはまずい。ことにあのようなものの中 から試験問題などを出すというのはいよいよつまらない話である。なぜならば、難句集などでは 一般の学力を鑑定することはできない。学生の綱渡りができるかいなやを見るくらいなもので、 学生も要するにきわどい綱渡りはできても地面の上が歩けなくてはしかたのない話ではないか。

難句集というものは一方に偏して、いわば軽わざのけいこである。試験官などが時間の節約上、 かつは気のきいたものを出したいというのであんなものを出すのは、ややもすると弊害を起こす のであるから、かようなもののみ出すのはよろしくない。

 

 本居宣長は、こうアドバイスする。(『うい山ぶみ』より)

 「文義の心得たがきところをはじめより、一々解せんとしては、とどこほりすぎて、すすまぬことあれば、聞こえぬところは、まのままにして過すぞよき。

殊に世に難き言にしたるふしぶしを、まづしらんとするは、いといとわろし、ただよく聞こえたる所に、心をつけて、深く味わうべき也。

こはよく聞こえたると思ひて、なほざりに見過ごせば、すべてこまやかなる意味もしられず、又おほく心得たがたひの有て、いつまでも其誤りをえさろらざる事有也。」