笹川邸について

大庄屋・笹川邸は、武田信玄の系譜にある。

 

現在の新潟市は、市町村の合併により形成されている。

南区は、旧・白根市、味方村、月潟村となっている。

大庄屋(おおじょうや)笹川邸は、旧味方村の、中ノ口川の風情の際立つ一角に威風堂々と構えている。

初代・治右エ門義勝は、武田信玄の甥っ子に当たる。治右エ門義勝が当地に移住したのは天正9年(1581年)とされる。

なぜ、かの地、甲斐の武田家が、蒲原の味方村に移り住んだのだろう?

「笹川邸今昔」によると、こうである。

武田信玄と上杉謙信は宿敵であった。川中島の戦いは、よく知られている。

しかし信玄、謙信が没し、織田・徳川の勢力が強まるにつれ、武田と上杉は親交を結ばざるを得なかった。姻戚にまでなっている。

この流れを受け、甲斐と越後の関係は急速に改善し、越後、とくに蒲原への移住が急増した。武田信玄の分家筋が移住先で特別の庇護が与えられたのは、想像のつくところである。

 

笹川邸に集積された年貢米は新潟湊へ。

 

笹川邸の率いる味方組は、村上藩の飛び地となっていた。

味方組は、味方・白根・坂井・木場・黒鳥・北場・亀貝・小新の8つの村で構成されていた。

各村から集められた年貢米は、笹川邸の米蔵に収納された。

年貢米は中之口川に浮かぶ船で輸送され、新潟湊(みなと)に集積された。

新潟湊に保管された年貢米は、村上藩に回される場合もあったが、そのほとんどは西廻りで大阪に輸送され、換金された。江戸初期は敦賀に、中期以降は江戸にも送られている。

「新潟市史 通史編 近世上」には、元禄4年(1691年)3月に、味方組より年貢米10,205俵と大豆435俵、同年4月には年貢米1,540俵が、新潟湊に送られた記録がみられる。

江戸時代の笹川邸の行政範囲(推定)。笹川邸は村上藩に属していたが、吉江・七穂は新発田藩である。また旧白根市も新発田藩に属していたことから、江戸時代の味方組とされた白根は、西白根と推測している。


現地に行ってみる。

 

笹川邸は昭和33年(1958年)〜35年(1960年)に大改修が行われている。

また翌年の昭和36年(1961年)には第二室戸台風により笹川邸も大きな被害を受けている。

屋敷を取り巻く杉の大木140本余りが倒れ、笹川邸の風貌は一変したと言われている。以後、その他、部分的な改修が行われている。

そのため、どこまでが江戸時代当時のものなのか、明確に判断できはしない。そこで、今回の見学に当たっては、室内の意匠よりも、当時の形式の観察に焦点を絞ってみた。


領主専用玄関一般人用玄関使用人の玄関


村上藩主立ち寄りに用意された「上段之間」。


「内藤紀伊守休」と書かれた表札。内藤紀伊守とは村上藩7代領主。三条陣屋に向かう途中、笹川邸の滞在を示すため表門に掛けられたという。



藩主の入浴した部屋。湯船は置かれず、写真向かって右側の戸口から湯が運ばれたという。床に傾斜が付けられていて、中央の穴にお湯が流れるようになっている。



28畳ある大広間。味方組8ヶ村が集まる会議などに使用された。



大広間と隣接する御用帳場(ごようちょうば)。事務方の部屋として仕様されていた。



御用帳場の帳箪笥(ちょうだんす)。

火事の際に移動できるよう、帳箪笥には車輪が付いている。



下男、小作人の部屋。

 

 

参考資料
・「笹川邸今昔」p13〜15
・「三条市史 上巻」p354図4、p368
・「新潟市史 通史編1 近世(上)」p468
・パンフレット「重要文化財 旧笹川家住宅」