体得するということ

「本居宣長」は小林秀雄の晩年の作である。

小林秀雄によると、宣長の「古事記伝」は、荻生徂徠の「論語」解釈のアプローチを、参考にしているようである。

小林は、徂徠の言うところの「かんがえる」について解説している。

(記憶が確かなら)「かんがえる」には、ただの知識ではない、「身に得(う)る」というニュアンスがあるらしい。

西田幾多郎の「善の研究」は、それほど厚い本ではない。けれど、書きっぷりが難しく、少しづつしか読み進むことが、できやしない。

こういう一文がある。

「知るというのは、いわゆる体得の意味でなければならぬ」「これらの考えは希臘のプラトンまた印度のウパニシャッドの根本的な思想であって、善に対するも最深の思想であると思える」(p181)

ベルクソン(小林秀雄)

漱石のある講演では、イプセンやベルクソンが引用されている。

ウィキペディアで調べてみると、漱石(あるいは鴎外)と同時代の人物たちなんだね。

ベルクソンは、いぜん図書館に立ち寄った際に、たまたま著作の背表紙が目に入り、読もうとしたことがある。

難解で、数ページ読んだだけで、投げ出してしまった。懲りずに、また読んでみようと思いたち、借りてみたけれど、やはり同様ですねぇ。

小林秀雄がベルクソンに傾倒していたことは知っていた。ネットで調べてみると同氏はベルクソン論を中断し、出版することを拒んでいる。がしかし(経緯は調べていないけれど)新潮社より、同氏のベルクソン論は「小林秀雄 全作品 別巻 感想」として出版されている。

同書をめくってみると、やはり、むつかしい。けれど、所々、オッと思う箇所があり、それがまた名文なんだなぁ。もちろんベルクソンが語ったことではなく、同氏の解説だ。備忘録として、長くなるが、引用しておこう。

「胚の命に与えられた衝動が、原細胞の分裂を決定し、分裂したそれぞれの細胞が、又分裂して行き、逆に完全な有機体が形成される。それと同じ様に、思想の働きは、思想の自己分裂を促し、精神が次々に取る面に上に拡がり、遂に言葉の面に達する、そう見るのが事の真相だとベルクソンは考える」

「従って、哲学は、統一から出て来る道であって、統一に達する道ではない。自然の産出物の細分化を模倣するのであって、細分されたものを集合して、自然を再構成するものではない。後者は科学の道である。或は科学に知らず知らずのうちに追従した哲学の道であり、その不確かな技巧的な足取りは、遂に科学を侮蔑するような結果となる。何故かというと、統一は、遂に空漠たる概念のうちに祭りこまれ、そうなれば、これをいくら細分化しても、もはや科学の観察や法則を照らし出せないからである」

「ベルクソンは、素直に与えられた統一から来ているのであり、統一そのものについて患いはしない。一種の統一が先ず与えられているのは、絶対的な事であるが、それは、彼という一個の生活の統一が在るがままに有限であり相対的であるように、有限で相対的なものだ。それで何一つ不足するものはない。彼の哲学は、彼が内的経験のうちで接触した、自然の自発性とも呼ぶべきものの率直な容認に始まり、この流れに添い、支流、細粒をどこまでも極めようとする。「意識の直接与件」という源泉は、「創造的進化」となって拡大する。彼の哲学は、芸術とその方向を同じにすると言える」(「小林秀雄 全作品集 別館1 感想(上)」P51〜52