白石、徂徠、諭吉

新井白石は荻生徂徠より上の世代だと思っていた。

しかし、ウィキペディアによると、ふたりは同世代だ。

徳川将軍は綱吉(5代)、家宣(6代)、家継(7代)、吉宗(8代)と続く。

徂徠は綱吉(5)と吉宗(8)、白石は家宣(6)と家継(7)に仕えている。

丸山真男は上の世代に、けっこう読まれているらしい。個人的には、福沢諭吉の「文明論之概論」の解説しか読んではいない。

丸山さんは諭吉を評価している。また徂徠も評価しているらしい。これについては時間があったら読んでみたい。

「折りたく柴の記」は、新井白石が末裔(まつえい)に残す気分で書いた日記風の記述だ。当時の様子を知ることのできる貴重な一冊だと思う。とりわけ江戸を襲った元禄地震や、富士山噴火による江戸の様子は興味深い。

一方、福沢諭吉の「福翁自伝」も幕末の様子を知る上で貴重な一冊だと言える。

新井白石も福沢諭吉も実証/合理的な視座の人なわけで。その点でも「折りたく柴の木」と「福翁自伝」は信頼できる書籍だと思っている。

体得するということ

「本居宣長」は小林秀雄の晩年の作である。

小林秀雄によると、宣長の「古事記伝」は、荻生徂徠の「論語」解釈のアプローチを、参考にしているようである。

小林は、徂徠の言うところの「かんがえる」について解説している。

(記憶が確かなら)「かんがえる」には、ただの知識ではない、「身に得(う)る」というニュアンスがあるらしい。

西田幾多郎の「善の研究」は、それほど厚い本ではない。けれど、書きっぷりが難しく、少しづつしか読み進むことが、できやしない。

こういう一文がある。

「知るというのは、いわゆる体得の意味でなければならぬ」「これらの考えは希臘のプラトンまた印度のウパニシャッドの根本的な思想であって、善に対するも最深の思想であると思える」(p181)