プラットフォーム

媒体は専門的な言葉だろうか。少なくとも日常の会話に、それを発する機会は、ほとんどない。

僕たちにとって、媒体とは、新聞や雑誌を示す。

面と向かって、会話する。けれど、遠くの人に意味を伝えるには、面と向かう時の場に変わり、媒体というスペースが必須になってくる。

そういう意味では、いま流行りのZoomも媒体であると言いたいところだが、個人的な感覚では、そう呼びたくはない。

あえて言えば、プラットフォームだ。ひとつの場に、任意の人が行き交うプラットフォーム。電車に乗り合う、そんなイメージだ。

Zoomだけではない。

ツィッターも、インスタといったSNSも、同様にとらえている。

ウェッブページというのは、旧来の新聞や雑誌と似ている。まったく違う系統のものでも、出始めの頃は、以前のものと似ているという説がある。

インターネットのキラーアプリケーションとも言えるウェッブサイトは、旧来の新聞や雑誌と似ている。しかし、その後の(ウェッブサイトを経て出てきた)SNSは、旧来のそれとは似ていない。新聞や雑誌、テレビとは系統の違うインターネットの性質の現れ、といった感がある。

一方的では、なくなってゆく

ぼくの半生以上は一方的な環境の中にあった。親は、まるまる一方的な環境の中にいた。祖父、粗祖父…というふうに、どんどん上に遡っていく、というふうに、頭の中で遊んでみようか。

僕たちの先代を含むアジアなら米を、西欧やアラビア半島なら麦を、南米ならトウモロコシを栽培し始めた頃。

一方的なトレンドは、その頃から始まったんだと思う。

さらに先史へ、いわゆる狩猟時代は、一方的ではなかったと思う。

そろそろ「一方的とは何? 」とツッコミが入りそうですねぇ。

一方的とは、農耕時代に始まったとされる支配者→被支配者、

現代なら、そうだなぁ、製品→卸→小売という商品の流れ、テレビ→視聴者、先生→生徒などなど、時間をかければ、もっと書き出せそうだ。

ちなみに漱石の描く小説のエゴは倫理が中心にあるけれど、村上春樹のそれには中心がない。分散している感じ〜

「サピエンス全史」という書籍が話題になった。

一見、狩猟時代を僕たちは阻害してしまいがちだが、本書を読んでいるうちに、「けっこう、いい時代かも」と思ったりもする。

まず少人数で行動するので、伝染病にかかるリスクが少ない。

イノシシを狩って、あとは自由だ。いまより、全然、時間に束縛されなかっただろう。

そして、その中には一方的なラインは存在しなかったのではないか。

「サピエンス全史」の同著者は「ホモデウス」の中で、人が人を作る可能性のあるゲノム編集を引き合いに、「いまや人類は数万年単位の変化の時期にある」といっていたと思う。タイトルの「ホモデウス」も「ホモ(人類)がデウス(神)」になるというニュアンスだね。

ま、著者のユヴァル・ノア・ハラリのような広い視点に立つことは不可能だけれど、

これからは、一方的では、なくなっていくよね。

SNS、YouTube、クラウドファンディング、ブロックチェーンなど、かつてはなかったツールの存在は大きいよ。

文章について

ウェッブサイト、SNSは強力である。そして、そのあおりは既存の活字メディアを駆逐さえしつつある。

しかし新聞などが読まれなくなったのは、ほんとうにSNSといったプラットフォームの影響だろうか?

そこには文字を読むことが自明になっている。そもそも文字を読んだり書いたりすることは長い歴史の中で最近のことだと思う。

逆にとらえれば、文字が読まれなくなる、あるいは読めなくなるというのも暴論と言えないかも知れない。

ホリエモンの意見は拝聴している。

ホリエモンは文を読めない人が近頃少なくないことに気づいたという。YouTubeに注力しているのも、そのせいだろう。

谷崎潤一郎や白洲正子の文章は名文でしょう。読み手の身体が暖かくなるほど味わい深い。

最近ビル・ゲイツの、新型コロナウィルスについてのブログを自動翻訳で読んだ。普通に読めた。ビル・ゲイツの文章は明瞭で自動翻訳に適している文章であることが推察される。

谷崎潤一郎の随筆が文章のお手本にある一方、自動翻訳しやすい文章もまた、これからのお手本になっていくかも知れない。