ゆれるきもちに、ふりまわされる。

きもちを、こころと言いかえていいのか、わからない。けれど、ここでは、きもちを、こころに言いかえてみよう。

ゆれるこころに、ふりまわされる。

漱石は小説のなかで、そのことを、くりかえしえがいた。

村上春樹の小説の主人公はクールだ。対象とは、はなれている。じぶんのこころさえ、はなれている。

漱石のえがくこころは御しがたい存在だけれど、一方の村上春樹のえがくこころは疎外されている。

村上春樹の初期の小説の、「僕」と「鼠」は同一の人物である。これはもう定説だろう。

そして『羊をめぐる冒険』では、「僕」がナゾの羊を追い求めていくうちに、「鼠」(つまり「僕」)と出会う物語になっている。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も、平たくいってしまえば『羊をめぐる冒険』と似た、失われた「僕」を追い求めていく小説である。

ま、図式的には似ている。でもね、『多崎つくる』は、ぼく個人に、あることを示唆するほど重要な小説になっていたりするんだ。

漱石の『こころ』のなかでは、けっきょく、先生は失われたこころに対し手立てが立てられなかった。

しかし『多崎つくる』の中では、そのことに対するアプローチが提示されている。少なくとも、個人的には、そういう読み方をしているわけネ。

『多崎つくる』は『こころ』が発表されてから、ほぼ100年後に書かれたストーリィだ。ちょっと進歩したんじゃないかなぁって、そんなかんじ。