「ロング・グッドバイ」を再読して

きのう「グレートギャツビー」と「ロング・グッドバイ」に感じる、イノセンスについて触れた。

ロング・グッドバイ」を再読し終えた。訳者の「あとがき」も読んでみた。

偶然にも、「グレート・ギャツビー」と「ロング・グッドバイ」の共通点について触れられていた。

その解説には(もちろん)イノセンスは使われていない。

そのかわりに「崩壊の引き潮」というキーワードが出てくる。目に見えない下り方向の力。

それに対して、ヘミングウェイの小説の主人公たちは立ち向かうし、少なくとも立ち向かう姿勢を見せる、という。

ギャツビーやフィリップ・マローは、ちがう。引き潮に身をまかせる。

その際の敵は、もはや外部にはなく、じぶんの内面にあるのだが、一方で、自らをまっとうに保とうとする。

そして、フィリップ・マローの場合、その最後の砦は、個人的な美学、規範、徳義となるという。

ギャツビーはどうか。「あとがき」から引用させていただく。

「フィッツジェラルドは、すでに割れてしまった美しい皿の中に、自らの敗退と幻滅のイメージを見出し、それを自虐的なまま克明に、しかも、あくまでも美しく描写した」

◎感想

話は外れてしまうけれど、「システムと運用」というコンセプトがある。

システムに頼り、そこでフォローできないものは運用するという、ま、そういう考え方。

この場合のポイントは、ものごとを、すべて運用でやってしまうと、えらく労力が、かかってしまうという点にある。

先に紹介したように、フィリップ・マローには、個人的な美学、規範、徳義、まぁ、僕なりに言えばスタイルがある。

言ってみれば、フィリップ・マローは、スタイルに支えられていて、それだけ、内面の負荷は回避されている。

それを持たない、イノセンスに頼るしかないギャツビーは、せつないんだよねぇ。