AI前提になっても、それでも書くということ

かつて執筆は、人ならではのものだった。いまはAIでも書く。

新聞や雑誌はページも部数も有限だが、SNSには限りがない。そこにAIが加われば、情報の奔流はさらに勢いを増すだろう。文章の経済的価値は、じわじわと薄れていくかもしれない。

しかし文章は、経済的価値だけで測れるものではない。書くという行為そのものが、人を救うことがある。詩人や小説家はそれを知っている。日記やブログを毎日書き続ける人も、おそらく同じだ。読まれるためではなく、書くことで自分が保たれる。言葉にした瞬間、ざわついていた内側がすこし静まる、あの感覚だ。

そして書かれた言葉は、他者とつながる糸にもなる。手紙を受け取ったとき、好きな作家の一節に胸を突かれたとき、文章は書き手と読み手のあいだに、静かな充実をもたらす。

僕はたくさんの本を読んで育った。いま思えば、幸運なことだった。

AIネイティブの世代は、本よりも先にAIと言葉を交わすだろう。彼らには彼らの、新しい「当たり前」が育まれていく。そちらにも興味がある。