古典を読む意味

さいきん古典を読むのも楽しいかも、とおもっている。

やや遠回りします。

考古学というのは、かなりの資料を収集し、その時代のアウトラインを描くらしい。

ともすると歴史についても同様のアプローチをしがちだが、残念ながら考古学に比べ、歴史に関する資料は乏しい。とりわけ鎌倉時代以前の資料は乏しいという。

そう思うと、教科書的な歴史は何だか心もとないし(たとえば重要な歴史が発行されれば、歴史のは変わるだろうし)何よりも僕たちは、ふつうに生活に追われている。歴史の構築など、ほど遠い。

ただ僕たちは、古典を読むことで時代の雰囲気に向き合える。たぶん。

個人的に、象徴的に、その時代の救う感じがあるとおもっている。

たとえば江戸時代なら、金融と経済の発展だろう。鎌倉時代なら仏教だ。

前者は、井原西鶴の「世間胸算用」や「日本永代蔵」や近松門左衛門の、いわゆる人情物で知れるし、後者なら「歎異抄」がある。鎌倉時代の雰囲気を知るうえで「方丈記」は必須だろう。

コンセプトの立て方について

親鸞について、何冊か読んでいる。

その中でも鈴木大拙の「日本的霊性」と吉本隆明の「親鸞」が好みである。

吉本さんは本書で、親鸞の本当の言葉に近づこうとしている、とおもう。

ほんとうの言葉は、浄土宗について祖述した(とりまとめた)親鸞の主著「教行信証」よりむしろ、弟子が親鸞から聞いた言葉の中にある。それは、たとえば「歎異抄」の前半であり、親鸞が弟子たちに手紙で応えた文の中にある。

もっとも、これは「親鸞」を読んだ推測であり、吉本さんがそのことを意図していたかは知ることはできない。

個人的には、大拙さんの「日本的霊性」、吉本さんの「ほんとうの言葉」といったコンセプトを立てて論を進める方法は参考にしたい。

浄土真宗

仏教のキーワードは、空でしょう。

ただし空は知識でなく(何十年も瞑想して得られる個人的な)体験だとおもう。

なので空は言葉には表し切れないし、また空から派生したようなコンセプトさえ言葉では語り切れない。受け手にも伝わり切れない。

たとえばダライ・ラマの唱える利他主義、そして親鸞による「悪人正機」がある。

親鸞は歎異抄の中で、人間は(人間にとっての)善悪とは無関係に、機縁さえあれば、大量の殺人さえ犯してしまうと言っている。

他力の位相からみれば、善よるむしろ悪の方が救われるとも言っている(ただし、自覚している悪は自力が働いているので、その限りではない)

そして、この説は当時の弟子たちに大きな誤解や混乱を招いたとされる。

ま、いずれにせよ、浄土真宗は理路として、空から正機をたどれると思うけれど、念仏と浄土の関係は仏教というより、浄土ならではユニークな思想だとおもう。

とくに親鸞は浄土宗を祖述し、親鸞ならではの日本に合った(鈴木大拙によれば日本的霊性が顕れるような)浄土真宗を創造した。

ただただ信じて「南無阿弥陀仏」と唱える。それに対して阿弥陀仏は、信頼してくれた衆生が浄土に行けるように願う。願いがかなわなければ阿弥陀仏は悟りをあきらめるとまで。

平安末期から鎌倉時代は、地震や津波、疫病や大飢饉が頻発した。もちろん現在のように、たとえばたとえば新型コロナに対するワクチンといった科学やテクノロジーは存在しなかった。

また自力による他者への慈しみは現世的であるため中途半端に終わるしかない。

浄土という位相による救済は、とりわけ当時は有用だった。

そればかりか、現在とは比べものにならないほど、救済は深かったようにおもう。