統治機構が一変すると、違う国家になっていく。司馬遼太郎には、そのような捉え方をする一面があったと思う。
司馬さんが幕末から明治について語った「明治という国家」というタイトルにも、そのことが現れている。
本書では、勝海舟について語られている。
ちなみに個人的に、歴史のほとんどは、司馬遼太郎の著作から知識を得ている。
歴史系の知識について、高校の日本史の授業より、司馬作品を読んだ時間の方が遥かに長い。
記憶をたどってみると、その中で、勝海舟に触れている著作は少ない。強いてあげるなら「竜馬がゆく」くらいだろうか。
なので「明治という国家」の中で、あるていどのボリュームで勝海舟に触れ、なおかつ司馬さんが好意を持ってるのは意外だった。
徳川将軍家の直属の家臣は、旗本と御家人である。後者は、直接、将軍にお目にかかれない。勝海舟の家系は、このポジションにあった。しかも俸禄は少なく、生活のため副業をしていたようだ。
家柄について保守的な江戸時代にあって、(俸禄の少ない御家人の息子)勝海舟が頭角を現してきたのは、それだけ、時代を取り巻く状況が切迫していたからだ。
幕末、従来の慣習を縫って出てきた、ひとつのタイプは語学に長けていた人だと思う。福沢諭吉しかり、勝海舟はオランダ語に秀でていた。
勝は、当時、日本では珍しいオランダの書物(辞典だったかな?)を、高いお金を払って、借り受けることに成功した。拝借しているあいだ、勝は寝る間を惜しんで全ページを書き写した。それも1冊ではなく、2冊だ。そして1冊は自分の手元に置き、もう1冊は売りさばいて、借り受けの際のお金に充てた。勝海舟好きの人にとっては、有名な話だ。
ただし福沢諭吉も同様のことをやっていて。語学に情熱を燃やしていた人にとっての、当時のひとつの稼ぎ方だったのかも知れない。
ところで、一介の御家人である勝海舟が、政治要人にまで登りつめるキャリアは、どのようにスタートしたのだろう。
それは、ペリーの率いる黒船来航が契機になっている。黒船が江戸湾に姿を見せた時、江戸城下は大混乱に陥った。未知の問題に対応する術はない。そこで幕府は、ペリーの持参した米大統領の親書をオープンにし、広く意見を求めた。問題の先送り案が寄せられる中、勝海舟は具体的な提言を行った。これが幕府の目に止まった。勝の台頭の始まり。