ユーザーどおしがつながるSNSの衝撃はおおきい。
新聞や雑誌をつうじた取材は、そのポジショニングの再考を余儀なくされている。
取材についての書籍は意識的に読んでいる。
「サードドア」(アレックス・バナヤン)も、そのうちの一冊と言える。
オリジナルのタイトルは「THE THIRD DOOR」。「第三の扉」だ。
本書によると、99パーセントの人たちは入れるかどうか分からない「第一の扉」で行列をつくっている。
「第二の扉」は、生まれながら良いポジションにいる人や、著名人しか通れないVIP専用の扉である。
そして本題となる「第三の扉」は、工夫をかさね、何百回もノックして、よくやく開く扉だ。
何かのドラマで見たのだが、アメリカの医学部の学生は四六時中、勉強を強いられている。ストレスは相当なものらしい。
著者もまた南カリフォルニア大学(USC)の医学部進学過程で、学業に追われる日々を送っていた。
医学部進学の単位が不足していたり、一方では、このまま医師になるのが果たして満足の行く人生なのか、煩悶している。
なにかヒントを得ようと、彼は図書館でさまざまな人の伝記を読みまくる。
彼は、ユニークな事業を指し遂げた人のキャリアパスについて、深堀りした書籍のないことに不満を持ち、
そして、じぶん自身で、現在の「ビックネーム」に取材することを思い立つ。
他国では、その感じがつかめない。
日本なら、たとえば、孫正義や宇多田ヒカルにインタビューする機会は得られない。取材未経験の人には、なおさらである。
なので、そういう人への取材の思いは妄想で終わる。
がしかし、筆者はちがった。試行錯誤しながら行動し、当初目標としたビル・ゲイツへの取材を達成する。レディ・ガガとの親交も深めた。
そして文字どおり、日夜奮闘するなかで、トニー・シェイ(ザッポスの創始者)、ディーン・ケーメン(発明家)、ラリー・キング(インタビュア)らに出逢う幸運に恵まる。金言も得ている。
本題は、ターゲットへの取材なのだが、じつは、その過程じたい、すでに取材になっているんですねぇ。
ま、彼の立場から言ってしまえば、それ自体が「サードドア」になっていたりする。
ビル・ゲイツに会えたものの、残念ながら、本書に触れられているとおり、取材には成功していない。
本書で知ったのだが、コールド・メールという言い方がある。同書では、飛び込みメールと訳されている。つまり、知らない人へのイキナリのメールである。
彼はこの手法をよく使っていて、ゲイツに取材した経験をもつマルコム・グッドウェルにもコールド・メールしている。
「ゲイツは気さくださ、よくしゃべってくれるよ」
たしかに、よくしゃべってもらったようだが、はたして、筆者はゲイツの話す内容がうまく理解できなかった。
筆者は1992年生まれだ。
ウィンドウズ95がリリースされた年、彼はまだ3歳。
ビル・ゲイツがスタートアップした頃は、言うまでもなく、彼は生まれていない。
一方のマルコム・グッドウェルは1963年生まれである。
ということは、少なくとグッドウェルは、ゲイツのスタートアップの時期と同じ空気を吸っている。この、いわば同時代性というのは、あなどれないという。そういうことだとおもう。
これについては、ジャーナリストの佐々木俊尚さんが、東洋経済社のウェッブページで、とても上手に解説している。
一方、偶然に出逢ったラリー・キングからは、とても良い言葉を得られている。世代をこえたアドバイスだとおもうし、
あるいは筆者の目指すこととラリー・キングのやってきたこと(インタビュー)が重なり合っているためかもしれない。
「ネットだけの誰とも分からない名前を好きになる人なんていない」
「僕たちが僕たちなりのスタイルで取材するのは、それが、いちばんリラックスできるからだ。こちらがリラックスしていれば、相手もリラックスできる」
(以上、オレの要約)
このへんは金言だとおもうなぁ。
それから、もう一点。
ビル・ゲイツの取材がうまく行かなかった筆者に対し、ラリー・キングとなじみのカル・フスマン(雑誌「エスクァイア」のライター)からアドバイスを受ける。
「こんどはメモをとるな」
それを受けて筆者はスティーブ・ウォズニアックへの取材は、リラックスしたものとなり(おそらく)こちらの取材は成功している。
ここからは余談となる。
かけだしの記者ふたりがニクソン政権の暗部にせまる「大統領の陰謀」は大好きな映画だ。
ふたりが追いかけたのは、いわゆる、ウェーターゲート事件である。
ボブ・ウッドワード(スティーブ・マックイーン)のメモする姿や、メモを走らす音は、なんど見ても、好きなんだなぁ。
そして、カール・バーンスタイン(ダスティ・ホフマン)の、取材相手を安心させるためにあえてメモをとらないシーンや、ワシントン・ポスト主筆が、彼らの取材に対し、「ちゃんとメモをとっていたのか」と問いただすシーンも印象的だ。
このことは映画上の脚色なのか、あるいは当時の現場の実際の感じだったのか知る由もない。
ただ、メモは、現在のICレコーダの録音と同様、記事を書く場合に参照するためのものにちがいない。
また一方では、取材者の「言った、言わなかった」に際する証拠にもなるんだろう。
そして、人は情報が残ることに身構える。
そもそもメモ取りや録音するのは(専門的だったり、長時間のインタビュー以外は)インタビュアと取材者に距離があるからなんだよね。
逆に言えば、メモ取りや録音ありきではなく、
しなくても良いかどうかを先に考えて、どうしても必要なら、どのようにしたら取材相手にストレスをかけないか考えるという、
あ、これ俺的には「コロンブスの卵」ですわ。