米軍艦ポータハンと臨海丸

臨海丸(りんかいまる)、

という言葉くらいは聞いたことがあるだろう。

臨海丸には勝海舟と、当時、無名だった福沢諭吉が乗り合わせていた。

福沢諭吉は、後年「痩我慢の説」を書いている。当初、この文章は公開される予定ではなかった。

「痩我慢」にはタイトル通り、痩我慢の視点から西郷隆盛を褒め、一方の、江戸城受け渡し側の勝海舟は批判されているようだ。

(たぶん日米和親条約だと思うけれど)条約を批准するために、日本からアメリカへ特使が派遣された。

特使はアメリカの軍艦に乗っていったのだが、そのほか、日本の軍艦も後を追っている。

後者の日本側の木製の軍艦が、勝と福沢らを乗せた臨海丸である。

アメリカの軍艦には、目付として、小栗上野介(こうづのすけ)が乗船していた。

彼らの帰国後、勝海舟は神戸に私立の海軍塾を創設し、その塾長であった坂本龍馬は、のちに長崎に海援隊を作った。

一方、(現在の財務大臣のような)勘定奉行であった小栗は、幕末政府の内部留保もないまま、そうとう無理をして横須賀ドックを作った。

以上、つらつら書いてみて思うことは、条約批准のためのアメリカ渡航というイベントは、水面に落ちた一滴のように、次第に円を描き広がっていったような、ま、そんな感じ。