村上春樹のミリオンセラー「多崎つくる」は、漱石の「こころ」から100年のちに発表されている。
こころと自我は、どうちがうのか、うまく書けやしない。仮に、こころと自我は同じ、ということにしてしまおうか。
漱石と村上春樹は自我を描く作家として比較される論評がある。
それを読んでいると「そうかなもな」と思ったりもする。
漱石の描く「自我」は、わりとモダンでしょう。
ここでいうモダンとは、自我と倫理は関係していて、それは、こころの中心にある。中心から外れていくことに、主人公たちは悩むという、ま、そういうかんじ。
一方の村上春樹の小説に描かれる自我は、中心がないように、ふるまう。
極端な、わかりやすい例としては(ひとりのなかに、なんにんも、じぶんがいる)ドッペルゲンガーが現れるカフカ少年だろう。(「海辺のカフカ」)
「多崎つくる」は好きな小説である。何度も読み返している。
先に村上春樹の小説には、自我には中心がないように、ふるまうと書いた。
「中心がないように、ふるまう」という書き方がミソで、たとえばデビュー作の「風の歌を聴け」をみよ、
ラストシーンで主人公は神戸の港で泣くじゃないか。じつは中心があったりして。ラストに揺り戻しが起こり、泣いてしまうんじゃない ?
ま、これを、ひとことで、喪失感、と言ったりする。
タイトルが長いので「多崎つくる」と書いてしまったけれど、
「多崎つくる」の正式のタイトルは、「色彩を持たない多崎つくると彼をめぐる巡礼の旅」だ。
「風の歌を聴け」のラストシーンでは主人公は泣いたが、
この小説では、喪失感を取り戻すまでのストーリーが描かれている。
最後の、フィンランドにいるクロに会いに行くシーンは、とても好きな描写なんだ。
自我について書くつもりだったのに、どうも、ちがうことを書いているようで。ま、でも、遠からず近からずなんだけれど、ね。
ところでチベット仏教では、自我はない、という。意外なんだなぁ…