以前より正解には意味がない

専門的な分野、と書いてみる。

ならば「どこから専門的なんだよ」って、突っ込みたくもなる。

だって、じぶん以外(その人はその人にしかないような)一意の人でしょう。

学校にはテストというものがある。

これは解答というお手本に近づけば良いとされる。

すると多くの生徒は、解答に近づこうするし、少なくとも先生は近づくように指導する。

かくして生徒は同じ解答を解こうとするわけで。一方で、個性、個性と言っているのだから、ま、いい加減なものである。

専門的なことや、正解に近づくことは、わりとモダンなことだとおもうわけ。

こういうのと、同じことをする、同じものを作ることと、相性が良いかったりする。

梅棹忠夫さんが情報産業という言葉を作ったのは、もう50年以上前のことで。これ、アルビン・トフラーより前だぜ、というのは、誰かの受け売りだけだけれど、ま、先見性があったわけネ。

げんざいは、もはやモノづくりより、ソフトウェア、さらには情報中心の社会になっているでしょう。

そうなると、正解よりむしろ仮説を立てたり、誤差を考慮した方が有効かもしれないだわ。

1+1=3は誤差が50%もあるので、さすがにマズいけれど、1000+1000=2001なら誤差0.5%なので、ま、そんなもんだろうみたいな考え方。