浄土真宗について知りたいと思っている。
というのは僕の家系は代々浄土真宗であり、また今年、大切な母親が亡くなったからだ。
他の宗教と同様、浄土真宗を深めるためには多くの本を読む必要がありそうだ。
しかし残念ながら僕には時間も能力も不足している。
なので手の届く本を最後まで読む方針を取った。
一冊は「歎異抄」、もう一冊は「仏説無量寿経」である。
定説では「歎異抄」は弟子の唯円により著わされている。
「歎異抄」によると、浄土真宗の主眼は阿弥陀仏を一心に信じることにある。
理屈は邪魔になる。一生懸命に書物を読み知識を付けるよりむしろ、素直の人の方が救われる。
このような浄土真宗は良いものだと思う。
とりわけ亡き父と母を想うと、祖先から引き継がれてきた浄土真宗で良かったと思っている。
「仏説阿弥陀経」は日本には中国を経由して伝わっている。重訳ということになる。
一方、日本では、岩波書店から出版されたサンスクリット語の直訳を読むこともできる。
漢文訳に比べサンスクリット語からの訳は冗長で緻密だ。関数の接線の傾きを求めるために、値を無限に接点に近づけていくような、ま、そんな感じ。
個人的には漢文訳よりサンスクリット語からの訳の方が好みである。
浄土教のお手本となる「仏説無量寿経」を読んでみると、浄土真宗の宗祖・親鸞は、その中かから阿弥陀仏に焦点を当て深堀りし、さらに自分ならではの解釈を施していることが分かる。
そのユニークな解釈があって初めて、浄土真宗が根付いたといっても過言ではないだろう。
他方、親鸞は「仏説無量寿経」の、うっとりするような浄土の荘厳華麗な雰囲気には触れていない。
またサンスクリット語からの翻訳にはフと新約聖書を思い出させる雰囲気を持っている。
ここから話題が変わる。
「喜びの書く」(原題「The Book of Joy」)について書いていく。
本書を読んでみると、チベットの高僧・ダライ・ラマと、キリスト教の聖会牧師デズモンド・ツツのお互いの意見の了解が多々みられる。
元は同じ系統にあったにではと、想像してみたくもなる。
浄土真宗は僕たち日本人にとって懐かしく良いものだと思う。しかし、約800年前に親鸞による解釈から生まれたこともあり、現在では有効でない感じもする。
ダライ・ラマは仏教徒だけでなく、世界の多くの人から支持されている。
それはダライ・ラマの言葉が現在の未知の問題に対して有効だからだと思っている。
ともすると浄土真宗は「なすがまま」なので浄土以外の対象には心の働きがみられない。それに対し、ダライ・ラマのアプローチは現在も有用で、実際的である。
「喜びの書」の中から救いになったフレーズを引用する。
「私はよく次のような質問をされます」とダライラマは言った。「親友や親や子供を亡くした人たちからです。”何をなすべきでしょう?”と。
私は彼らと自分自身の経験を分かち合います。私に僧侶の位を授けてくれた最愛の教師が亡くなったとき、私は本当に悲嘆にくれました。彼が生きている間、寄りかかることができる背後の硬い岩のようにいつも感じていました。彼を失い、私は本当に深い悲しみに沈みました。
喪失によって生じる悲嘆を乗り越えるには、それを動機づけとして活用し、より深い目的感覚を生み出す必要があります。教師を失ったことで、私は以前にも増して彼の望みをかなえる責任があると考えたのです。そのお陰で、悲しみは熱意と決断力へと変換されました。親友や家族を失った人たちは私に言ってきました。たいへん悲しいことですが、この悲しみは彼らの望みを叶えるためにより強い意志に変えられるべきです。もし亡くなった人があなたを見て、固い意志と希望をあなたが満ちていることがわかったら、きっとハッピーになれるでしょう。大きな喪失の悲しみを抱えたままでも、人はより意味のある人生を生きることができるのです」
「喜びの書」(ダライ・ラマ/デズモンド・ツツ/ダグラス・エイブラムス/翻訳:菅靖彦)P113より抜粋