フリー(ソフトウェア)

フリーウェア、いや、フリーソフトウェアと言った方が、なじみやすいかなぁ。文字どおり、フリーのソフトウェアなんだから。

フリーとは、無料のことである。お金がかからない。

それは、その通りなんだけれど。ついさいきん、オレは「フリーは(お金はからないけれど)コストがかかるよなぁ」と思いはじめたんだ。

時間も、手間も、モチベーションの減退もコストである。「いまさら、なに言っとるんだ?」というような基本的なことに、実感がわいてきたんだね。

たとえば、フリーソフトウェアを採用する。とうぜん、サポートはない。グーグルで検索して、関係ありそうなウェッブからウェッブへと、ウロウロすることになる(で、しまいに、いやになって来る)。

書籍のばあい、そもそも、そのフリーソフトウェアのタイトルがないケースがあるし、逆に、人気のあるソフトウェアの場合、多すぎて、あれこれと手を出してしまうことになる(やはり、いやになって来る)。

ま、そもそも、リチャード・ストールマンといったハッカーたちのあいだでは、フリーソフトウェアのフリーは、「自由」という意味合いで使われていたわけで。

自分の作ったソフトウェアを公開して、自由に使っていいし、そのソフトウェアを自由に書き換えてもいい。そんなかんじのフリー。

固定でもIPアドレスは変わるのか

携帯は家や会社だけで使うのではなく、移動先でも使うから、キャリアから割り振られるIPアドレスは、そのつど変わる。それは分かっていた。

では、光回線を使っている家や会社では、どうだろう。一箇所にいるのだから、プロバイダーから割り振られているIPアドレスは、常に同じだろう。素直にそう思うよね。でも、違うのである。

先日、それを知る必要があって、プロバイダーにその旨、メールにて問い合わせていた。答えが返ってきたら、モウケもののような気分でいたが、本日、電話をちょうだいした。ありがたいよー。

担当者「先日のメールの件ですが(光回線のような建物に引き込まれている回線でも)IPアドレスが一定であるわけでは、ありません。たとえば、ルータの設置をし直したり、スイッチを切り替えたりしたばあい、IPアドレスが変わる場合がございます」

俺「では、仮にルーターをまったく触らない場合は、どうでしょ」

担当者「ルーターのファームウェアは自動的にアップデートされることがありますので、その際にも、IPアドレスが変わることがあります」

ふむふむ。

プログラムは融通がきかない

このウェッブサイトは、自分で作ってみた。WordPressを使っている。

WordPressには、基本的なプログラムが最初から用意されている。その上で、自分の好みにあったデザインや機能が盛り込まれた「テーマ」を見つけ、そのファイルをダウンロードする。で、足りない機能は、「プラグイン」をさらにダウンロードしてゆく。

WordPressと付き合ってみて、基本的なプログラムや、テーマのタグやプログラムは触らない方が良いなぁ、ということを実感したね。

もし、なにかを変えたいのなら、ファイルは、そっとそのままにして置いて、それに合った「プラグイン」を見つけ、ダウンロードした方が、よろしい。

なぜ、そう思ったのかというと、基本的なファイルに(しろうとの恐ろしさというか)たった一行のコード、いや、一文字ていどを書き加えて、イタイ目にあったからだ(ほんとうに、あわてたんだから!)。

で、ここから、考えを発展させる。プログラムというものは、融通がきかないものである。だって、たった一文字で、思うように動かないわけだから。

それに比べると、人と人なら「てにをは」が間違っていても、意味は、ちゃんと伝わるもんね。「犬ぬ、足をかまえれた」。ほらね。

ま、プログラマーは、たいへんな職業だよねぇ。

Unixのコマンド

パソコンは、アイコンをクリックすれば、用が足りるけれど。ある事情から、MacのターミナルからUnixのコマンドを打たざるを得なくなった。せっかくなのでコマンドを整理して、メモしておこう(使えそうなコマンドだけ、抜粋する)。

ps
OSX内で実行されているアプリケーションやコマンドを表示させる。

cd ディレクトリー名
作業ディレクトリーをホームディレクトリーに移動させる。その他のディレクトリーに移動する場合は、cd(半角)の次に、該当するディレクトリー名を入れる。例:cd Desktop、cd Library

pwd
現在作業に使用しているディレクトリーのパスが表示させる。

ls
ディレクトリー内に存在しているファイルの一覧を表示させる。

man コマンド名
Unixのコマンドの説明を見ることができる。

open コマンド
よく使うアプリケーションを、エイリアスとして登録しておく(ターミナルにアプリケーション名を入力するだけで、そのアプリが開く)。
例 : alias excel=”open -a Microsoft\ Excel”    alias word=”open -a Microsoft\ word”

ps -ax
MacOSX内でシステムによるプログラム、あるいはプロセスを表示させる。

その他

.(ドット)で始まるファイルを見れるようにする。
defaults write com.apple.finder AppleShowAllFiles TRUE
killall Finder

隠れるようにする。
defaults write com.apple.finder AppleShowAllFiles FALSE
killall Finder

Unixのアプリをインストールする。
sudo port install (アプリの名前)を打つ。パスワードを聞いて来るので、入力。パスワードは表示されないが、あわてず、待つとインストールが開始される。

 

unix

ブラウザー

Internet Exploreは使っていない。「あえて、使わなくともいいや」という思いがあるし、それ以前に、現在アップル・ユーザーは、Exploreを使うことはできないと思う。

MacもiPhoneも、当初は、バンドルされているSafariを使用していた。けれど、インターフェイスが、いまいち好きになれないので(みばえが、ゴチャゴチャしているので)グーグルのChromeに変えた

Chromeの「シークレットタブ」は、ときどき利用する。このモードのタブでウェッブを見れば、その履歴やCookieは残らない。前者は、誰かと共同でパソコンを使っている場合に良いかも知れない。後者は、Cookieによる広告表示が反映されないようになる。もっとも、いちいち「シークレットタブ」を選ぶのは面倒なので、広告を表示させない拡張機能をアドオンした方がスマートかもね。Chromeは各種アドオンも充実していると思うよ。この点、モジラのFirefoxも良いかんじ。かわいらしいし。

サポートがあるとスムース

Wordの調子がおかしかったので、Microsoftのサポート(Answer Desk)に電話をした。はじめてである。対応がスマートなので、だいぶ、感心した。

そもそも、オレ、フリーのソフトウェアをよく使っている。もちろん、サポートはない。分からないことは、該当するフォーラムや(技術系の参加者が多いと思われる)はてなの「人力検索」で質問している。答えをいただいたときは、ほんとうに感謝している。そのうえで、きょう、「サポートのあるソフトウェアは、スムーズだなぁ」って、思ったね。スムースさに、新鮮を感じた。

PDFからテキストに

「PDF OCR X community Edition」を使って、PDFデータを、テキストデータに変換してみた。

 

pdf_ocr

アイコンをクリックする。

 

pdf_ocr1

ウィンドウが開くので、任意のPDFファイルをドラッグする。

 

pdf_ocr2

pdf_ocr3

ドロップすると、ウィンドウズの色がグレイになり、次に設定画面が出る。
各種設定を行ない、「convert」をクリック。

 

pdf_ocr4

ファイルを変換中。そのあいだ、下部のバーの印が左右にうごく。

 

pdf_ocr5

変換されたテキストデータは、こんなかんじ。

ことばの深さ

インターネットの機能は、広くみて、データを交換し合うことにあるだろう。

たとえば、ネットにより、メールを交換できる。ツイッタやフェイスブックも、インターネットのその機能が活用され、データを交換しあっている。

ウェッブサイトを見るということは、いっけん、そのウェッブから一方的に情報が流れているように感じるが、じっさいは、サーバーとクライアントのあいだで、それぞれの属性を確認しあうため、両者のOSやIPアドレスといった情報交換がなされている。

グーグルの自動翻訳などは、データベースを活用しながら、2つの言語を交換しあっているのだろう。で、ここで、問題にしたいのが、そもそも情報の交換とはなにかという点であるが…

と書いたところで、はなしを変える。

むかし、文京区の千駄木に居た。団子坂沿いに居た。数メートル坂を登ると、森鴎外宅の旧跡に(現在は違うけれど)森鴎外記念図書館があった。当館では、ときどきイベントが企画されていて、ある日、当館入り口で、吉本隆明講演の告知を見つけた。関心があったので、聴講にいった。足腰が弱っておられたのか、図書館の、車輪のついた座椅子の背もたれを押しながら壇上に上がられたこと、原始人が海をみて「う」と言ったこと、そのような記憶しかない。

で、なぜ、こんなことを書いているのかというと、現在、同氏の『定本 言語にとって美とはなにか』(角川ソフィア文庫)を読み始めているからだ。その中に、上記の、海を「う」といった記述が書かれていて、「あ、あの講演は、このことをおっしゃっていたのかぁ」と思い出したのだ。

要約したいのだが、とてもムリなので、申し訳ないけれど、そのまま引用させていただく。

「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときのある叫びを<う>なら<う>と発するはずだ。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視界に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ<う>なら<う>という有節音を発するだろう。このとき<う>という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反射的な指示音節だが、この指示音節のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<海>(う)という有節表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することになる。このとき<海>(う)という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。

こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、じぶんをふくみながらじぶんに発した音声になる。またそのことによって他にたいする音声になる。反対に、他のためにあることでじぶんにたいする音声になり、それは自分をはらむといってよい

なぜなら、他のためにあるという面で言語の本質をひろげていくと交通の手段、生活のための語りや記号は発達してきたし、じぶんにたいしてあるという面で言語の本質としてはたらくかぎり即自も対他も対自もふくんでいる」(P39)