人工頭脳

ネットをチェックしていると、人工頭脳がもりあがっている。このまま続くのか、それとも下火になっていくのか。だいぶ関心がある。ま、こういうの好きなので、個人的には、前に進んでいってほしいなぁ。

いや、希望的観測として、このさい前に進むと言ってしまおう。ただ、ぼくがそういう読み方をしているからかな、おうおうにして関連記事は、すぐに人工頭脳社会になるような印象を与えてしまっている。じっさいに、そこまでいくのは、ずいぶん先だよねぇ。

で、これは推測だけれど。人口頭脳の影響を受けるのは母数の多い業種だとおもっている。ちょっと分かりずらいね。母数が多いとうのは、その仕事に従事している人数が多いことを言っているんだ。ここでは、主旨からはずれてしまうのでこれ以上書かないけれど、簡単にできる仕事といっても良い(簡単にできる仕事=>従事している人数が多い)。

人工頭脳の開発には、そうとうのお金がかかるとおもう。それを償却していくには、就労数の多い業種の労賃から差し引いて、その合計額で埋め合わせていった方が合理的だからだ。たとえば、その人にしかできない宮大工の仕事を、人工頭脳でやろうとしても割りにあわない。その人ひとりでやった方が、よほど理にかなっているよね。

オブジェクト化

ある書籍の文章を要約しておこう。備忘録として。

ほとんどの人は一度に、5〜9くらいの概念しか取り扱えない。それ以上を取り扱うには、問題をより抽象化すると良い。

プログラミン言語について言えば、抽象化とオブジェクト化は紙一重である。

これによりプログラムに内部を知らなくても、プログラムを使えるようになるし(ブラックボックス化とも呼ばれる)、

たとえば、いままで1000行あったプログラムが、オブジェクト化により10行ですむこともありえる(生産性が100倍になる)。

喩えについて

喩え(たとえ)をつかって説明されている文章に出会うことがある。

でも、ぼくは、喩えは詩や文学や宗教には有効かもしれないけれど、そのほかは、きっちり説明しきれないような気がしている。

そう思うようになったのは、プログラムについての説明で、ときどき出てくる「オブジェクト指向」についてネットで読んでみたことがキッカケである。

プログラマーなら、じっさいにプログラムをやっているので、できることはできるので、まぁ、そのとおりだ。

けれど、実際には、たずさわっていない。でも、それについて知りたい。そのような場合、自分でやってみるのが、いちばん良さそうだけれど、能力も時間もない。そういうとき人は文章にたよる。

とくに説明がむつかしい概念について、説明するほうは比喩を使いがちだし、読む方は比喩にたよりがちだ。喩えを読むことで、なんとなく満足してしまうけれど、じつは分かっていなかったりして。

ま、なかには、喩えなどつかわずに、きっちり説明されている場合もあるとおもう。読む方も、少しは、しがみつけた感じがする時がある。

その分野をみずから開発してきた人の文章を読むことは、少なくとも無駄にはならないと思うんだなぁ。

Chromebook

ネット上のプラットフォームが大切であって、いぜんと比べ、パソコンにこだわりはない。せいぜい、キーボードを打つ感触がくらいかなぁ。

ちなみに、げんざい、MacBookAirとChromebookをつかっていて、キーボードは前者のほうが、だんぜん良い。

逆にいえば、キーボードにこだわったChromebookがリリースされれば、ずっとMacをつかってきたボクも、宗旨がえをするかもしれない。 Chroebookは、Chrome経由でつかうので、セキュリティはGoogleに任せっきりにしておけばいいわけだし。

ところでChromeがようやくExploreをぬいて、ブラウザーのトップシェアになったらしいねぇ。ちょっと、うれしいかも(米調査会社ネット・アプリケーションズ公表)。

ケタ違いの効率

きのうのブログで、データのフロッピーわたしから、電話回線を利用した送信について触れた。

フロッピーわたしの際には、時間がないときにはバイク便をつかっていて。料金は、都内で3000円くらいかかったんじゃないかなぁ。それが通信により(ほぼ)0円になったんですねぇ。

そのよーなことが頭の片すみにあるものだから、まったく違う相の技術が出てれば、ケタ違いに効率があがることはありうると、どこかでおもっているんだ。

新鮮だったよ

もうずいぶん前になるなぁ。

とうじの僕は東芝のRupo(ワープロ)で原稿を書いていた。

そのころになると、法人組織ではなくても、フリーランスのデザイナーでもMacに手がとどくようになっていた。

RupoのデータはMacでは、そのまま読み込めなかった。なので、それ用のユーティリティをつかって、MS-DOSのデータに変換してからデザイナーに渡していた。デザイナーはMac上のPC-exchangeで、その文書ファイルを開いていたという。

で、この手間は、通信によって解消される。モデムを介して電話回線とワープロをつなぎ、先方に原稿を送るようになってゆく。さいしょのころは、送るたびに、「おー」っていうかんじだったなぁ。

つぎの「おー」というかんじは、ウェッブサイトをはじめてみたときです。

とうじ原宿駅で降りて事務所まで歩いて行っていた。たぶん、そのとき、看板かなんかで見かけたのかなぁ。原宿駅前にインターネットカフェがあってさ。なんとなく入ったんだとおもう。ブラウザーはMosaicだったんじゃないかなぁ。アドレスバーにURLを打ち込むと、内容は何だか分からないけれど、アメリカのウェッブがいきなり画面に出たりして。感動したんだから。

デバイスの今後

げんざいはFacebookやYoutubeといったプラットフォームが率先していて。「こちら側」のデバイスなんて「もうなんでもいいや」的になっている。スマホでもタブレットでもパソコンでも、なんでもよろしい。

となると、もうデバイスの伸び代なんて小さいと思うのは自然だろう。もし伸びるとしたら、スマホにドングルを装着するとか、bluetoothで他のデバイスと連携しあうくらいしかないだろう。まぁ、そんなふうに思っていたわけね。

でも本日のNewsPicsの、出井伸之✕堀江貴文を読んで、考えを改めました。

デバイスはますます進歩するというのである。半導体の集積度を上げるブレイクスルーがあるだろう。ジャイロセンサー、紫外線センサー、脈拍センサーの精度は著しく向上していて、それらを積んだデバイスが、今後、どんどん出てくるだろう等々。ま、そんな発言だね。

貨幣経済

ある本によると、貨幣経済とは「貨幣がある」とか「貨幣は便利」というレベルを越えて、「貨幣なしでは成り立たない経済」を指すらしい。

だとすれば、現在は貨幣経済である。これは疑いがないだろう。

では日本の貨幣経済の始まりは、いつだろう。「いちばん古い記述の時期がそれである」とは言えないだろう。それは、たまたま見つかっただけだし、そもそも有史以前も貨幣経済だったかもしれないし…ま、それは、なさそうかな。なんとなくね。

一方、「その時はすでに貨幣経済であった」とは言えそうだ。少なくとも、いまから350年ほど前の元禄時代は、そうだとおもうな。

近松門左衛門、それに井原西鶴の書き物を現代語訳で読んでみると、「地獄の沙汰も金次第」的な様子が伝わってくるじゃない。ま、でも、情や粋(いき)を通すための散財ぶりは、おもしろいなぁ。

ちなみに、当時すでに複利計算はあったんですねぇ。

すぐメモる

村上春樹の言葉遣いはクリアだとおもう。ただ小説そのものは難解である。その点、旅行記は抽象的ではない。旅行先の描写がつづられているので、分かりやすい。

先日、「雨天・炎天」を再読した。ギリシアのアトス島とトルコの旅行記は、もともと単行本として別々になっていたのかもしれない。僕の読んだ本は、両編いっしょに収められた文庫本である。

アトス島はギリシア正教の聖地らしい。著者とカメラマンと編集者は、島に点在する修道院に宿泊しながら、島内をめぐる。形而上的でなく、土着的な雰囲気を持っている。そのようなことが書かれていたとおもう。どこのパンがおいしいとか、行き先でかならず出される何とかというお菓子がどうだとか、食べ物の記述もあった。

トルコへは(国内を移動するために、わざわざクルマの免許をとったり)準備をととのえ、期待して行ったようだ。でも思ったより良い印象はなく、最後の方は、かなり投げやりになっている。トルコ領内のクルド人のいきさつは分かりやすかった。クルマから一瞥(いちべつ)する白い衣装を来た少女の描写は幻影的でイメージが喚起された。

ところで、作家がどのようにメモをとっているのかは、分からないものである。だが本書には、旅行記用の日記について記されている。このような感じだ。

クルマの中では字が書けない。ホテルには日記をつけるようなテーブルがない。だから休憩で入ったカフェのなかで、それまであったことを、ちくいち書いておく。次にいつ書けるか分からないし、書けるとき書いておかないと、あったことをすぐ忘れてしまう。いろいろ似たようなことが起こるので、前後がすぐに混乱してしまう。移動のさいは、とにかくなんでも良いから、こまかいことをすぐにメモすることが肝要である。

メモか、録るか

取材のさいには、ノートにメモをとるか、それとも録音を残すのか。

取材する僕の立場からすると、ルールのようにきっちり決めていたるわけではないけれど、そのあと書く原稿の文字数によって決めている感はある。400字詰めの原稿用紙3枚くらいなら、メモ書きで十分というふうに。

じゃ、話を聞かれる立場からすると、どうだろう。ICレコーダなり、あるいはiPhoneで取材用のアプリを立ち上げる操作をすると、いい印象は持たれないだろう。先方が身がまえる感じが分かるし、逆に僕がそのようにされたらイヤだねぇ。

ちなみに、「大統領の陰謀」という映画では、ダスティン・ホフマン演じるカール・バーンスタイン(先輩記者)は、メモをとる場合でさえ、相手に許可を得ているもんなぁ。

ま、それはさておき、最近、僕は録音にとらわれず、できるだけノートにメモをとりたい気分になっているんだわ。

ひとつには、録音したからと言って、それが事実だとは思わなくなってきたからだろう。そのとき言った言葉は残っていても、人は、立場や取材場所や気分や体調で言うことなんて、違うじゃない。

ふたつめは、もしメモ書きで足らないことがあったら、後日、電話なりメールで、その点について、うかがえばいいやって、割り切れるようになってきたからかな。