「自然」ということばについて

「自然言語」という言葉に違和感がある。

まず、これは英語っぽい。

オッケー。ネットで調べてみようか。

英語では「Natural Langege」こちらのほうが、まだピンとくる。

「言語」と「Langage」はまだいいとして、「Natural」の訳、「自然」がちょっと、おかしい。

こちらもネットで調べてみると、

Naruralは19世紀後半、西欧から入ってきた言葉で、日本にもともとあった自然(じぜん)に対応させたという。

同じくネットで調べてみると、親鸞の晩年の手紙「末燈鈔」に「自然」という言葉が出てくる。

「自然(じねん)」というは、「自」は「おのずから」という。 行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。 「然」というは「しからしむ」ということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。 「法爾」というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。 

さらに調べると、老子や荘子の書にも出てくるようだ。

同じ「自然」でも、親鸞と、老子・荘子ではニュアンスはだいぶ違う。すでに同じことばで括るのに無理がありそうだ。

ましてやコンピュータ用語の「自然言語」など、まったく没交渉だ。

ならば、そのままカタカナにして「ナチュラル・ランゲージ」の方が、よほど良さそうだけれど、ま、自分で言っているのなら良いにしても、他の人に言うのは、なんだかキザっぽくで言えやしない。

ここはひとつ、自分なりのことばの発明が必要かもしれない。

そもそもコピーライターって、ことばを発明する職種なんだぜ。