何年前だろう、ひょっとすると何十年前かもしれない。かつて、
サラリーマンという職業はありません。
というキャッチコピーが話題になった、
とは言うものの、ここには皮肉のニュアンスがあって、じっさいには、それ以外の働き方をうながすツールはなかった。
げんざいは、当時とちがうでしょう。
インターネットがあり、ウェッブがあり、SkypeやSlackといったアプリケーションがあったりする。毎日、通勤などしなくても、あるていど仕事ができてしまう。
それでも「サラリーマンという仕事はあります」的なのは、なぜだろう。
ひとつは、それが慣習になっているからだと思う。
漱石先生は講演の中で「意識は連続したがる性質を持っている」「意識の不連続は死ぬくらい苦しいことだ」みたいなことを、おっしゃっている。
一人ひとりの意識が集まったものが、たぶん慣習なので、変わることは死ぬほど難しいのかもしれない。
それでも、たとえば明治維新や戦後のように、かなり暴力的なことが起こり、空気感がガラリと変わってしまえば、慣習もパッと変わったりするかもしれない。
でだ。
もうひとつ、相変わらず、「サラリーマンという仕事はあります」的な状態が続くのは「じつは日本人は、他国の人に比べ人を信用しない」説(「安心社会から信頼社会」/山岸俊男) からではないか。
顔を合わせたことのない人より、毎日、いっしょにいる人の方が、だんぜん信用できるみたいな、ねぇ。
これから、2つの「仮想」の普及は間違いないでしょう。
ひとつは仮想空間。
xR(VR、AR)は確実に浸透する。通信の5G(第5世代)化により、さらに促進されるでしょう。地球の裏側の人たちとだって、同じ空間を共有できるようになる。
もうひとつは仮想通貨、ネ。
たとえば、アルゴリズムにより信頼が担保されるイーサリアムは、会ったことのない人どうしのプロジェクトを可能にする。その際にネット上に流通するのが仮想通貨となったりする。
ま、普及することは確信しているけれど、時間軸はわからんな。数年後かもしれないし、数十年後かもしれないし。
いずれにせよ、そのほか、AIによる仕事の代替もあり、サラリーマンは存在しなくなっていくと思うわけ。
「サラリーマンという職業はありません。」というキャッチコピーから、んん十年といった感じやね?