「好き」について。備忘録として。
「人が人を好きになるというのは、他人には説明できない部分がたくさんあると思うのです。貯金がたくさんあるということだとか、美人であるということだとか。だけど、そんなふうに説明できるものというのはもうみんなあきているわけで、そうじゃない部分で好きになっている。」(「権力の垢をソギ落とすのが感性だ。」(糸井重里/広告批評18号 1980年 10月号)
「百科辞典にはあらゆることが書いてある。けれど、その百科辞典と自分の関係というのは、それぞれの人がそれぞれに作っていくものでしょう。だから、百科辞典のどの項目でその人が何を感じるか、というのは、百科辞典の側からはもう言えないはずだと思う。」(「百科店から百科事店へ」(同氏/広告批評25号 1981年5月号 25号)
「村上 でも柴田さんが僕に向かって直接、柴田元幸とは何か、いかなる人間存在か、というような説明をはじめると、逆に柴田元幸を理解することは難しくなるかもしれない。むしろコロッケについて語ってくれた方が、僕としてはうまく柴田元幸を理解できるかもしれない。それが僕の言う物語の有効性なんですよね。そこに、僕とコロッケと柴田さんっていう三者関係ができるわけですよ。僕と柴田さんは、もちろんうまくいけばということだけれど、コロッケをあいだに引き込むことによって、ひとつの立体的な風景を共有することになる。言葉だけでなく、風景を共有することが一番大事なんです。簡単にはっしょって言ってしまえば、コロッケは柴田さんのオルターエゴであり、同時に僕のオルターエゴでもある、ということです。_(村上春樹に会いに行く/ 柴田元幸と9人の作家たち /アルク)