ダライ・ラマの「The Art of Happiness」を愛読している。
本書は、「The purpose of life is happiness」(だったかな?)で始まる。
このコトバに触れたとき、当たり前のようで、しかし意外な印象を受けた記憶がある。
「善の研究」によると、ギリシアのアリストテレスも(たぶん)同様のことを言っていたようだ。
「氏(アリストテレス)に従えば人生の目的は幸福eudaimoniaである。しかしこれに達するには快楽を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである」(「善の研究」ワイド版岩波文庫p178/西田幾多郎)
では、本書で言うところの「完全なる活動」とは何かと言うと、これが、分からないんだなぁ。筆者自身、こう言っている。
「勿論不完全なる我々はとかく活動の新意義を解せず岐路に陥る場合が多い」
ま、ぼくたちは不完全だから「完全なる活動」を解せない。岐路に陥ることが多いというんですねぇ。
一方、筆者は大元(内面的統一)へと、ベクトルを求める指向性があるようで、こうも言っている。ちょっとだけイメージに近づけたりする。
「義務或いは法則其物に価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起こるのである」
その例として、論語の一節が引用されている。
「疎食を飯ひ、水を飲み、肘を曲げて之を枕とす、楽も亦其の中にあり」
名前は忘れてしまったけれど、夭折した、孔子が愛した一番弟子の発したコトバだわな。
(追記)
「竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂に他ならず」と言った。(同180)
ここまで読むと、同様のコトバでも、ダライ・ラマとはアプローチが違う感じ。