「よろこびの書」

 「よろこびの書」より、付箋をつけたところの抜粋。

「親友や家族を失った人たちに私たちは言ってきました。たいへん悲しいことですが、この悲しみは彼らの望みを叶えるための強い決意に変えられるのです」
(ダライ・ラマ/ p113)

「ダライ・ラマは、仏教徒のムディターmudita(喜)の概念について話してくれた。ムディタは、しばしば「共感の喜び」と訳され、嫉妬の解毒剤と言われる。大層重要な概念なので、私たちが際限なく育むことができる四つの無量心(慈悲心)の一つとみなされている。他の三つはメッター(慈)、カルナー(悲)、ウペッカー(捨)である。

ムディターがどのように働くか説明したのはジンパである。たとえば、あなたが欲しがっている大きな家を誰かが手に入れたら、自分自身にこう語りかけることによって、彼らの幸運を喜ぶのだ。「彼にとって良いことだ。彼も私と同じように幸せを望んでいるのだ。家族を支えたいと思っているのだ。どうか彼らが幸せでありますように。私は彼を祝福し、彼がもっと成功することを願っています」ムディターは人生がゼロサム・ゲームではないことを認める。ケーキが一切れしかなく、誰かがたくさん食べられるほど、自分が食べる分が少なくなるというのではないということだ。ムディターは喜びを限りいものとみなす」(トゥプテン・ジンパ/p136)

「粗いレベルの心身が終末を迎えると、解体が起こり、より微細なレベルで顕在化していきます。そして、もっとも内奥の微細なレベルにおいて、死んでいく瞬間、クリア・ライトの状態が生じます。死ではありません。死んでいく瞬間です。身体感覚が完全になくなり、呼吸が止まります。心臓も止まり、もはや脈も打っていません、脳もその機能を停止します。それでもまだ、きわめて微細なレベルの意識が残り、別の人生の目的地に向かう準備をするのです」(ラダイ・ラマ/p168)

「あなたが今どんなことに苦しんでいるか考えてください。次に同様な状況をくぐり抜けようとしているすべての人々のことを考えてください」これは文字通り「共に苦しむ」ことを意味する憐れみの実践である。驚くべきことは、他人と「共に苦しみ」ことが、私たちが孤独でないことを思い起こさせ、実際に、私たち自身の痛みを減少させていとダライ・ラマと大主教が指摘している点だ。この相互依存の認識が、私たちを他者から分け隔てている境界、すなわち私たちの硬直した自己感覚を和らげる(ダグラス・エイブラムズ/p189)

「非常に物理的な例があります。中東の死海には淡水が流れ込みますが、出口がないので、水は流れ出ていません。川からきれいな水が流れ込みますが、水は停滞し、蒸発することによって塩水濃度が極端に高くなります。そのため、生き物が生息できず死海と呼ばれるようになりました。受け取るけれども与えない。私たちも大方そのように造られています。私たちは受け取り、与えなければなりません。最終的には寛大さこそ、より楽しく喜びを持った生きるための最善の方法なのです」(デズモンド・ツツ/P246)

「老人として、これだけは言えます。今いるところから始めなさい。そして、自分一人でこれらの巨大な問題を解決できないことを悟りなさい、と。あなたにできることをしてもらいたいのです。それは明らかなはずです。その結果どうなるかに、きっとあなたは驚くでしょう。

世の中の問題を気になける人はたくさん存在しています。その数を知れば、きっと私のハートは喜びで飛び上がります。環境問題をなんとかしたいと思ってニューヨーク市内を行進している人がどれだけいるでしょう。信じられないほどです。誰も彼らにはなにも支払っていないのです。でも彼らは列をなしている。気にかけている人がたくさんいるのです。(中略)

あなたは一人でないこと、仕事を仕上げる必要がないことを覚えていておいてください。時間がかかりますが、私たちは学び、成長し、なりたい人間になっていきます。他人が苦しんでいるからといって、自分の喜びを犠牲にしては、誰の助けにもなりません。他人を思いやる人は、魅力的で喜びで満たされていなければなりません。そうすれば、優しく世話を焼いても、相手は負担に感じることなく、喜びとして受け止めます」(デズモンド・ツツ/p259)

「人生において一度、特別な絆を結ぶと、その影響が死後の人生まで続きます。それが仏教の見方です」(ダライ・ラマ/p287)

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!