『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』を再読している。もう少しで読み終える。
『多崎つくる』は、漱石の『こころ』から100年後の小説だ。両作品とも、御しがたい個人について描かれているとおもう。
『こころ』の中で先生は「私は明治の精神に殉死する」などと言う。前段では、先生と妻のあいだで、明治天皇と乃木希典の殉死について語られている。そこに、こだわってしまうと「明治の精神の殉死」について迷路に入ってしまう。たとえば乃木の傾倒した陽明学を知る必要があるとかネ。
でも、そのパラグラフを素直に読んでみると、先生は個人に終始し個人で死んでいった。そういうふうに読んで良いとおもう。しかも、個人を逡巡(しゅんじゅう)する感じがとても激しいんだなぁ。
個人の行き詰まりに答えなどない。漱石の『私の個人主義』(学習院大学での講演)で言っているように、個人それぞれが、何十年かかろうがツルハシを掘りながらカチンと鉱脈にあたるまで掘り続けるしかない。
一方「多崎つくる」は、恋人の(というよりメンターのような気がする)沙羅にすすめられ、過去の失ったものを、かつての友人と出会い、彼の中にストーリィを作ることで心持ちが穏やかに変容してゆく。漱石流でいえば、つくるのツルハシが鉱脈に当たったといえなくもない。ただストーリィを作ることによる救いと読み取れる「多崎つくる」は「こころ」から1世紀たち進歩したような気もするんだわ。
つくるは名古屋で、高校時代、仲良しだった友人たちに会い、さいごにエリ(クロ)の嫁ぎ先のフィンランドに行く。ハリーメンナの湖畔のサマーハウスでのつくるとエリの会話は、とても好きなシーンだ。
今回読んで気づいたのだが、つくるはストーリィを作ることで自分を取り戻していくのだが、一方でつくるにストーリィを語ることでエリも救われていくんだなぁ(前回読んだときは、エリの思いをスルーしていた気がする)。
さらに、このかんじはレイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役に立つこと』(A Small,Good Thing)のラストのシーン、アンとパン屋の会話を思い出させた。