なんども読み返している本がある。「翻訳夜話」(村上春樹・柴田元幸)は、そのなかの一冊だ。
あらためて、再読してみた。いくつか、あたらしいことに気づいた。
ひとつは村上春樹のいうリズムについてである。
本書のなかでは、翻訳にかぎらず、文章にはリズムと、うねりが大切であるというふうに語られている。うねりはグルーヴ感ということばにも置きかえられている。あいかわらずグルーブ感については知る限りではない。たぶん、音楽にウトいせいだ。
リズムについては、音楽のリズムを敷衍(ふえん)させて、文章を読み上げたときのリズムであると思っていた。でも、あらたに本書を読んでみて、テキストを目で追ったときのリズムを指していることを知った。でもさ、見た目のリズムってなんだろう。それはそれで、わかるような、わからないような。
次。レイモンド・カーヴァーについて再認識させられた。
本書では、村上、柴田のおふたりがそれぞれ翻訳されたカーヴァーの「Collectors」が掲載されている。そのテキストを肴(さかな)に、翻訳者をまじえた意見交換がなされている(本書はセミナーでもやりとりが、とりまとめられている)。
その発言を読んでいて、ひらめいたネ。あたらしい理解。
それは、カーヴァーの小説は、いままでじぶんが読んできた以上に、ものの存在、そして取り扱いが、単純ではないということだ。
「Collectors」でいえば、主人公の存在はあやふやで、一方の、謎の訪問者がカバンから取り出すクリーナーや、クリーナーをかけるカーペット、それに吸いとられるチリやホコリの存在は大きい。チリ、ホコリではなく、チリたち、ホコリたちである。訪問者はチリやホコリたちだけでなく、(たぶん、ひとである)主人公までも収集にやって来たようなかんじ。カーヴァーの一部の短編は、おもった以上にシュールかもしれないなぁ。