インターネットの機能は、広くみて、データを交換し合うことにあるだろう。
たとえば、ネットにより、メールを交換できる。ツイッタやフェイスブックも、インターネットのその機能が活用され、データを交換しあっている。
ウェッブサイトを見るということは、いっけん、そのウェッブから一方的に情報が流れているように感じるが、じっさいは、サーバーとクライアントのあいだで、それぞれの属性を確認しあうため、両者のOSやIPアドレスといった情報交換がなされている。
グーグルの自動翻訳などは、データベースを活用しながら、2つの言語を交換しあっているのだろう。で、ここで、問題にしたいのが、そもそも情報の交換とはなにかという点であるが…
と書いたところで、はなしを変える。
むかし、文京区の千駄木に居た。団子坂沿いに居た。数メートル坂を登ると、森鴎外宅の旧跡に(現在は違うけれど)森鴎外記念図書館があった。当館では、ときどきイベントが企画されていて、ある日、当館入り口で、吉本隆明講演の告知を見つけた。関心があったので、聴講にいった。足腰が弱っておられたのか、図書館の、車輪のついた座椅子の背もたれを押しながら壇上に上がられたこと、原始人が海をみて「う」と言ったこと、そのような記憶しかない。
で、なぜ、こんなことを書いているのかというと、現在、同氏の『定本 言語にとって美とはなにか』(角川ソフィア文庫)を読み始めているからだ。その中に、上記の、海を「う」といった記述が書かれていて、「あ、あの講演は、このことをおっしゃっていたのかぁ」と思い出したのだ。
要約したいのだが、とてもムリなので、申し訳ないけれど、そのまま引用させていただく。
「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときのある叫びを<う>なら<う>と発するはずだ。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視界に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ<う>なら<う>という有節音を発するだろう。このとき<う>という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反射的な指示音節だが、この指示音節のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<海>(う)という有節表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することになる。このとき<海>(う)という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。
こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、じぶんをふくみながらじぶんに発した音声になる。またそのことによって他にたいする音声になる。反対に、他のためにあることでじぶんにたいする音声になり、それは自分をはらむといってよい
なぜなら、他のためにあるという面で言語の本質をひろげていくと交通の手段、生活のための語りや記号は発達してきたし、じぶんにたいしてあるという面で言語の本質としてはたらくかぎり即自も対他も対自もふくんでいる」(P39)