状況をみて諦めてようやく判断するということ

いわゆる裏金の問題。

最終的に裏金に焦点が当たっている5人が政治倫理審査会に出席した。そのやり取りはネットを通じて見ることが出来る。

率先して応じたわけではない。

岸田首相みずから当審査会に応じることで渋々5人は参加を認めた。

今回の一件や先の派閥解消の宣言といい、岸田総理は最後の最後その様子をみて判断している感じが否めない。

同氏は口グゼのように「自らの説明責任を果たして」という。これは2つの内容が含まれていると思う。ひとつは「自ら」もうひとつは「説明責任を果たす」である。

後者の説明責任はさらに「説明」と「責任」が組み合わさっている。

要は岸田首相は「自らの責任で」と言っていると思う。

そう思うと、今回の政治審査審査会の出席は「自らの責任」というより首相に促された上での出席となる。

いやいや、これは説明の責任であり審査会に自ら参加する責任とは別であるという反論もありそうだ。

しかし審査会に参加しない限り説明責任は果たされないわけだから、やはり岸田首相の「自らの説明責任を果たす」と、今回の岸田首相自らの審査会の参加による「私が出たんだから出ろよ」という暗黙の圧力は矛盾している。ネットでちらちら見ていてそういう意見には出会えていない。もっとも動画による話言葉ではこのロジックは伝わなないと思うけれど、直感的に本件の直感的な居心地の悪さを感じた人は少なくないのではないだろうか。

本件だけはない。岸田首相はギリギリになりその状況をみて判断するタイプにみえる。

幸い岸田政権のあいだ(石川の震災以外)有事はないけれど、たとえばアジア通貨危機やリーマンショック級の経済恐慌が起きたとき、あるいは最悪、戦争に巻き込まれたとき、とても困ったことになりかねないと思っている。ギリギリの判断ではその時のことしか見えていないから。

いまぱっと思った。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の乃木希典がそうだ。二百三高地の現状だけの判断により、どれだけの無辜(むこ)の死者が出たことか。

とはいえ個人的な話に引き戻せば自分自身、岸田首相と同様、ぎりぎりの状況まで見て諦めてようやく判断するタイプである。これ改善しなくっちゃ。