デカルト

いぜんから、形而上というコトバが気になっていた。

あらためてネットで調べてみると、このコトバは明治以来の、「易経」(いきょう)からの当字となっている。

「形、而して(しかして)上」。

文字どおり、形の上(の次元)を示していて。原語であるMetaphysicaの訳としては、ま、いい線なのかもしれない。

けれど、「易経」における形の上(の次元)は、ほかの儒学がそうであるように「道」を指している。

言うまでもなく、古代ギリシャで生まれたMetaphysicaは、古代中国の「道」は指してはいない。

デカルトは何世紀くらいの人かねぇ。17世紀くらい、かな。

「我思う、故に我あり」は、よく知られている、よね。

個人的に、このコトバの意味がずっと分からなかった、

けれど、ベルクソンの著作を1冊読み通してみて「あ、そういうことかも」と思ったりもした。

以下、その著作には書かれていない、勝手に思っていることネ。

デカルトは長い旅を終え、暖炉の火にあたっていた。そのとき、ハッと思った。
そして、そのことを確かめるために、自分なりの方法が必要だった。それを記したのが「方法序説」で、(たしか)その中に「我思う、我あり」が出てきたとおもう。方法としては、接線であったり、方程式とグラフを対応させたり(いまは教科書でも習うけれど)その時は、デカルトだけのユニークな方法だった。

デカルトは形而上なことを方法をもって、確かめようとしたわけさ。