漱石の「こころ」が朝日新聞に連載されたのは100年くらい前だ。

漱石の、とりわけ修善寺で吐血し生死をさまよった後の小説は、「こころ」をはじめ、こころの様相がえがかれている。

漱石の、その描き方はモダンだとおもう。モダンの意味は、こころに中心があり、右に左に、上に下に、ゆれ動くイメージだ。

村上春樹の小説もよく読んでいて、とくに「色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、とても好きである。

村上春樹の小説の主人公は、こころに中心がない。ちがったものが表層にあらわれるイメージだ。「海辺のカフカ」に出てくるカフカ少年は、(自分とそっくりの姿をした分身があらわれる)ドッペルゲンガー的でさえある。

「多崎つくる」は中心がないゆえに、喪失感をかかえながら生きつづける。そして、その喪失感を埋め合わせるために、沙羅というメンター的な存在のアドバイスで、数十年前に喪失したものに対し、じぶんなりのストーリィをつくりあげてゆく。

漱石の「こころ」の先生は、喪失したこころを取り戻せないまま、乃木将軍の死にさいして自殺してしまう。

それに対して、「多崎つくる」は、じぶんなりのストーリをつくることで生きてゆく。

こう書いてみると、「こころ」から「多崎つくる」まで100年を経て、その処方箋のようなものは前進しているような気が、どうだろうねぇ。

ところで、村上春樹の新作を読んでみたいけれど、厚いなあぁ。