情報の「マッシュアップ」化

「印刷は2周遅れ、ウェッブサイトは1周遅れ」などと言って、ひんしゅくを買っていたりする。

まずコンピュータによる情報のマッシュアップ化について語ろうか。

なじみのない英単語に触れたとき、英英辞典などを引き、元のニュアンスを確かめるのは、悪くはない方法だとおもう。

がしかし、さいきん、そういうのメンドーなのよね、

ということで、おもいのままの例をあげてみようか。

いままで2、3回くらいしか食べたことがないけれど、マクドナルドに、マッシュポテトという食べ物がある。

じゃがいもを、こまかく刻んで、コロッケ状のカタチにしたものだ。

マッシュアップの、マッシュは、この「こまかく刻んだ」というニュアンスだとおもうんわけ。

「容易にコピーできる」とか、データベースがあれば「検索しやすい」とか、コンピュータにはいろいろな有用性があるけれど、この「マッシュアップ化」も、そのひとつだとおもったりする。

まったく新しいものは、当初は、旧来のものとカタチが似ているという説がある。

ウエッブサイトなんて、そうだよね。「情報がベッタと」貼られている感じは、新聞や雑誌と良く似ている、

けれど、時間がたつにつれ、それはコンピュータやインターネットの本質に近づいてきた。

情報が「マッシュアップ化」されてきている。

たとえばツイッターやインスタグラム、たとえばTikTokというふうに。

これからディープラーニングやブロックチェーンは、もっと応用されていくとおもう。

これも、情報が「マッシュアップ化」されてしまった処理のひとつの解決策と言ってもいいとおもうんだ。

「クリエイテイブな仕事」と「デザイン思考」

 

「クリエイティブな仕事」や「デザイン思考」というコトバに触れることがある。

デザインも、クリエイティブも、じつは広告制作で、よく使われるコトバだったりもする。

それが、まるで倍音のように、一般にも使われはじめているんだ。

「クリエイティブな仕事」というコトバは、これからのAI社会に対する、ひとつの答えを示唆しているとおもう。

それは「じぶんで仕事をつくっていくことが、仕事になってゆく」ということだ。

一方の「デザイン思考」ってなんだろう。

一時期、ロジカル・シンキングというコトバがはやったらしい。

それについて、なにも知識がないわけだけれど、文字ズラから「これは、こうだから、こうだろう」と理屈で考える方法と、まぁ、そういうふうにしておこうか。

ところで、マリオ・ブラザーズをやったことが、あるだろうか。

このゲームの開発には、おもしろいエピソードがあるらしい。

あるとき、任天堂の社長が担当者を呼んで「予算がないけれど、ヒットするものを作るべし」と命令した。

そこで、担当者は、「なにかわからんけれど、ひげのオッサンをジャンプさせようと」思いついたらしいんだ。

本田宗一郎は戦後、パタパタというバイクを作った。それは「うちの、おかあちゃんが移動に困っていたからねぇ」なのである。

これは理屈ではないんだね。単なる思いつき。なんてことはない。「デザイン思考」って、こういうことを言うんじゃない ?

フレディ・マーキュリーなんて、まさに「クリエイティブな仕事」「デザイン思考」でしょ。

ユーザーが先生なのだ

AIの先生は誰だろう。

少なくともグーグルにおいては、先生は、ユーザーということになりそうだ。

グーグルアシスタント、つまり「オッケー、グーグル」により、グーグルはデータを収集しているけれど、逆にいえば、これは世界中のユーザーがグーグルアシスタントに、言葉や文脈を教えさせられていることになる。

グーグルフォトの機能として、さいきんiPhoneでも、グーグルLensを利用できるようになった。これにより写真から、そこに写っている対象物の名前が分かるようになった。ようやくディープラーニングが、身近に実感できるようになった。こちらも、グーグルがデータを集めている反面、写真を提供する世界中のユーザーが、しらずしらず先生役をやらされていたりする。

こういうこともあり、グーグルがAIに力を入れはじめたのは、音声、視覚ということで、わりと最近かな、と思いがちだけれど、

じつは、検索エンジンでは、すでに同様のことをやってきたと思うわけ。

ユーザーが検索するたびに、グーグルの検索エンジンは、かしこくなってゆく、みたいな。

ぼくは「Wired」という雑誌のファンである。

創刊者のケヴィン・ケリーは自著の中で、次のような話を紹介している。

「ラリー(ラリー・ペイジ/グーグルの創始者)、いまだによく分からないんだ。検索サービスの会社は山ほどあるよね。無料のウェッブ検索サービスだって? どうしてそんな気になったんだい?」

(中略)

「僕らが作っているのはAIなんだよ」

これは2002年のパーティでの会話、当初からAIを作っていたという逸話。

「<インターネット>の次に来るもの」(ケヴィン・ケリー/ 服部 桂訳)より

間伐とか植樹とか

間伐は、なぜ温室効果ガスの吸収に貢献するんだろう。この際、林野庁のウェッブサイトを参考に、まとめておこう。

間伐とは、古くなった木々を間引きし、森林に余裕を持たせることだ。

これにより、森林の中に陽射しが入り込み、新しい木々が育ってゆく。

新しい木々は、古い木に比べ、幹・葉・枝が盛んなので、それだけ、温室効果ガスをよく吸収する。

次に、間伐による森林が、下流の水害のバッファになることを言いたいけれど、残念ながら、いまのところ、林野庁のウェッブサイトから情報を見つけることができない。

ただ推測はできる。

新しい木々は、根に水分を多く吸収する(ほんとうか?)

とりわけ大雨が降ったときなどは、根が水分を元気に蓄える(ほんとうかなぁ)

ま、もともと木々というのは、よく分からない。

森林土壌の保水効果には限界があり、水害が発生する際の強い降雨や断続的な降雨では、その効果は十分に期待できない。「緑のダムの科学」より

いぜん東北地方の、被災にあった地域に、植樹のボランティアに行ったことがある。

被災地の植樹では、その土地固有の、ほんらいなら植生する木々の苗が選りすぐられていた。

ボランティアにあたっては、旗振り役の宮脇昭さんの自然植生についての書籍を何冊か読んだけれど…やはり、どうしてそんなことが分かるんだろう的な気持ちも残りながらも…「ええい」という感じになり、参加したっけ。

もっとも宮脇さんというか、先生は、イオンの植栽を指導して来られたり、万里の長城をはじめアジア各国の植樹を指導されきたりして。そうとう実績のある方だけれど。ボランティア当時、80歳を越えていたのに、かくしゃくとしていらした姿が思い浮かぶ。

 

理念について

ビル・ゲイツは、本をたくさん読むそうである。

ネット上で、ゲイツのおすすめの図書という情報に出遭うことがある。

2冊ほど読んだことがある。

「コンテナ物語」では、規格の同一のコンテナを列車からそのまま船で輸送する、物流の革命を知った。

スティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」では、世紀単位の長いスパンで見た場合、暴力による死者数は、むしろ減少していることを知った。

ちなみに「暴力の人類史」は高価な書籍だ。なので図書館からお借りして読んだ。手元に本書がないため、以下、記憶と僕の主観により書きつらねてゆくことになる。

普遍的なことも、普遍的でなかったりする。

たとえば民主主義は、所与のものと思いがちだ。

けれど、少しでも歴史の本を読めば、民主主義はわりと新しいものであることに気づく。

なにも歴史をたどらなくとも、現に民主主義ではない国は存在するし、民主主義を旗印にしている国も、そうでなくなる可能性もある。

要は、民主主義は、確固たりえるものではなく、ひとつの理念なわけネ。

あやふやな理念なんだけれど、それを言いつづける人たちがいて、少しづつでも政策にも反映して、民主主義というカタチになってきたんだと思う。

公民権やフェミニズムも同様だ。

「暴力の人類史」では、民主主義やフェミニズムといった理念がかかげられ、それが育っていったことにより、暴力による死者数が減少していったと、まぁ、そのようなことが書いてあったと思う。

理念を持ち続けることは、なにげに大切なのかも知れない。ただ、それは現実とは相反することが多々ある。なので両方、大切だということになりそうだけれど、ねぇ。

ところで、相反する言葉として、「論語と算盤」という言葉を目にしたことがある。

たぶん、これは渋沢栄一の「論語講義」の中の一節を、誰かがキャッチフレーズにしたんだろう。

ダライ・ラマは現実レベルのことを「粗いレベル」としている、かな。

もっとも、ここまで来ると、現実と理念を相対化するのではなく、真理として語られているんだろうかもです。

マイクロソフトは変わった


マイクロソフトの印象は悪かった。その原因は、とりも直さず、ビル・ゲイツにある。

ぼくはコンピュータのコードについて、オープンソースを支持している。

なのでコードを公開せず、そのライセンス料で巨額な富を築いたゲイツが嫌いなのである。

ちなみに、ゲイツはオープンソースの牽引役となったリナックスに対して、強い言葉で非難している。

とはいえ、げんざいビル・ゲイツは、マイクロソフトの経営から離れていて、

現職のサティア・ナデラは、オープンソースの受け入れに舵を切ってる。それどころか、むしろ、積極的に取り入れている感じさえする。

プログラミング用のエディタであるVSCodeはオープンソースだし、オープンソースのプラットフォームと言ってよいGitHubさえ、いまや同社の傘下だ。

ウィンドウズ上で、検索 > リナックスのディストリビューション(リナックスから派生したOS)の選択で、すぐにダウンロードできてしまうらしいじゃないの。

時空を超えて会話するばあい

じぶんには能力も時間もないので、じぶんと、その対象のあいだに入ってくれる人がいると、とても、ありがたい。

ただし、ぼくのばあい、その中に入ってくれる人に、うるさい。

逆に、中に入っているひとが見つかると、こころおきない。

たとえば「論語」は渋沢栄一の解釈をまとめた「論語講義」を愛読している。

古代へ案内していただくのは、白洲正子だ。

レイモンド・カヴァーやレイモンド・チャンドラーの翻訳は、村上春樹による。

で、そうなると、「論語」のばあい、孔子の発話とされるものか、渋沢栄一の解釈に親しんでいるのか、その輪郭があいまいになっている。

同様に、古代なのか、白州さんの案内を楽しんでいるのか。

英文学を愛読しているのか、村上春樹の文章に触れているのか。

おそらく、小林秀雄なら「そんなことは、どうでもいいじゃないか、感動しているのは君だろう」なんて、おっしゃりそうだけれど、

ま、それはさておき、いままで、ずいぶん、たくさん書籍を読んできた。けれど、内容は、さっぱし思い出せなかったりして。

さて、読書って意味があるのかしらん、とおもう反面、考えるとき、判断するときの何かの厚みになっているような気がしなくもない。

最後に、話はそれるけれど、MIYAVIというミュージシャンがいる。

NewsPicsのインタビューによると、彼は、30過ぎてから渡米し、英語に触れていったらしい。

以下、インタビューからの引用である(彼の新著からの孫引きとなる)

通訳がいれば、会話はできる。細かいニュアンスも伝えられる。
でも、会話のグルーヴがなくなる。
会話とは人と人の感情を言葉に乗せたジャム・セッションだ。

オレ、この文に触れて「おー」とおもい、思わず膝をたたいたりしたわけ(これ、比喩ね。じっさいは、膝はたたかないぞ)。

で、そうおもうと、翻訳や解釈により読書することは、原書と読者のあいだのグルーヴ感の機会が損失されているのかもしれない。

要は、たどたどしくても良いから原書を読むことは、それはそれで意味があるかもしれないことを示唆していたりする。

ちなみに、村上春樹も翻訳のときに気をつけている点として、グルーヴ感をあげている。

もっとも、Miyaviはミュジシャンだし、村上春樹がこの言葉を使うのも、なんとなく自然だ。

ただ古典を原典で読むばあい、グルーヴ感は似合わない、とおもう。

このばあい、なんて言えばいいんだろう。本職のコピーライターとして、考えつづけていきますかねぇ。



将来価値を生むということ

事業らしい事業をやったことがない。なので、これはアタマの体操ね〜

現在は、歴史的に金利が低いそうである。

金利が低いのなら、資本や借入れを増やし、資産を大きくする絶好のチャンスだ。なのに実業家は積極的に資産を増やそうとしないという。それは、資産を増やしても価値を再生産するほどの価値が生まれず、ただの、減価償却で終わってしまうと思っているからでしょう。

一方、一部の企業はAIにすごい投資をしている。

Lineなんて、赤字を出してまでAIに投資しているみたいな。これは、現在、赤字を出しても、将来的には価値を生み、キャッシュを生んでいくことを期待しているからに違いないよね。

slack

Slackはべんりだなぁ。

メンバーとのやり取りだけじゃない。

そのほか、アプリの連携も良さそうだ。

そのさいに、とまどってしまったのは「ワークスペース」でアプリと連携させることだ。

アプリといえば、たとえばパソコンの中にインストールしたり、あるいはネット系ならブラウザーにプラグイン(一種のアプリ)を入れたりして、

いずれにせよ、「じぶん」の中にインストールする認識だった。

がしかし、Slackのばあい、メンバーとの共有スペースである「みんな」の中に、じぶんの好みのアプリをインストールするという。

あたらしいことを取り入れていくと、こういう「カルチャーショック」によく出会うんだなぁ。ま、おもしろいけれどね〜

 

グーグル検索と雑誌の購読者数


検索エンジンの上に表示される対策を、CEOと言う。

そのアルゴリズムは公開されていない。

なので、

関連する書籍やウェッブサイトを書く人も、それに対応するソフトウェアを作成するグループも、グーグルの公開する情報や、検索結果から類推して対応していると、おもう。

WordPressのばあい、yoastCEOというプラグインの評判が良い。

じっさいに触ってみると、タイトルはこうの、要約文はこうせいの、とてもそんなことをやっていられない感があったりするけれど、

ま、それでも、このウェッブサイトにだって閲覧目標はある、いや、あったんだ。

なんの根拠もなく、純文学の月刊誌の発行部数くらいになればいいって、おもっていたわけ。

ちなみに、文芸誌のいちばんの発行部数は「オール讀賣」の39,433部。

一方、純文学系はというと「文學界」9,533部、「小説すばる」9,000部、「新潮」7,200部となっている。

//(社)日本雑誌協会 2018年7月〜9月

ずいぶん小さいマーケットだし、

それどころか、じっさいのお得意さんが全国の図書館であることを勘案すると、

ざっくり言って、1万(発行部数)− 3千(図書館数) = 7千

が、個人を対象としたマーケットでしょう。

//全国の自治体の図書館数は、3273件(日本図書館協会統計2017年)

月間純文学の販売実数 7千。

そして、当初の、このサイトの月間の閲覧目標が7千。

このふたつの数字をならべて、比較していたわけだけれど、

げんざいでは、これは妥当ではないとおもっている。

それは、

雑誌の読者のばあい、お金を払うなど主体性があるわけだし、

一方、検索のばあい、検索していて、たまたま、そのページを開いたなんていうことも、おおいにアリでしょう。

ま、どちらかというと、本屋さんやコンビニに行って、たまたま雑誌を開いたイメージに近かったりする。

要は、両者は「相」が違ってしまっているんだね。数字というのは、いっけん確かなようだけれど、慎重に検討しなくっちゃ、ね。