ことばの有用性も変わるよな

「真木準コピー新発売。」という本を持っている。愛読もしている。

あらためて読み返してみた。かつての「いいなぁ」はなくなっていた。有効ではないのではとさえ、おもってしまった。

しかし、真木さん言えば、かつて「コピーライター四天王」(だったかな?)と言われるほど、さかんであり、そのことばは、訴求力を持っていた。

そう言えば、村上春樹もいぜんほど夢中で読まないし、

これは、個人的な感覚が変容しているからだろうし、一方で「みんなもそうじゃない?」とおもったりもする。

昔も今も、歳月がたつというのは、そういうことさ、でもあり、

一方、それは、かつてのそれとは、ちがう側面もあるかもしれない。

それは、新たな情報経路や、情報空間の爆発的な広がりである。

YouTubeなら、ひとりで放送局がつくれてしまう。そしてファンが多い、いわゆるユーチューバーなら、映像に広告を貼れば、とても大きな収益を得ることができる。これは「ひとり広告代理店」だよねぇ。

そして、そのとき語られることばは、かつてのことばとはちがう。そうおもっている。

インスタグラムでの写真でのアプローチ、ツイッターでのつぶやきなども、かつてとはちがう伝わり方をしている。

1980年代前半のコピーライターブームのことばどもは、テレビ、新聞、雑誌と親和性の高さから来ているかも。これが、きょうの俺の仮説だったりする。

米テックのクラウドに乗る

時価総額という、僕にとって文字面だけのコトバを、意識的な言葉に変えてくれたのは、ピーター・ティールの「ゼロ・ツゥ・ワン」である。

ありがとう、ピーター。

(正確な言葉ではないけれど)本書の中では「時価総額は、これから産むであろうキャッシュの総和」と書かれていた。

グーグルの子会社アルファベットの時価総額は、1兆ドルを越えたようだ。

アップルやアマゾンも超えているし、たしかマイクロソフトも同様だったような、

というわけで、4社の時価総額は400兆ドルで、日本の国家予算の4.6倍にも及ぶ。

これだけの将来価値に乗らない手はない、のである。

きのうのブログで、ここ7、8年の、クラウドの急速な発展について触れた。

アップルはまだ、製品つくりのイメージが残っているけれど、

アマゾン、グーグル、マイクロソフトは、もはやクラウドの会社と言っても良いとおもう。

そして無料、あるいは、わずかな料金で、そのクラウドを活用することができる。やはり、これに乗らない手はないのである。

クラウドはいちじるしい

Youtube、Netflixなど映像系のプラットフォームが、さかんだ。

それにともない、ネット上のデータのトラフィックが急増している。

対応策として、あたらしいデータの圧縮技術や、遅延の少ない5Gが期待されている。

安倍政権は誕生から8年目を迎えた。

(政権とは直接関係ないけれど)そのあいだ、iPhoneには目立った進歩はなかった。

4Gは、たしかに普及した。がしかし、それほどの実感はない。

個人的に、端末の、キャリアの月額のデータ量は5G Bから1GBに変更して来ている。

しかし、これは、4Gの普及とは関係ない。マックやスタバ、図書館など、いろいろな場所で無料でwifi が使えるようになったからだ。

ということで、安倍政権下大きく進歩したのは、端末や通信の進歩よりむしろ、AWS(アマゾン)、GCP(グーグル)、AZURE(マイクロソフト)といったクラウドである。

実感がないのは、スマホあるいは、その周辺の事情と違い、目の前に見えるモノではないからだ。

言うまでもなく、YouTubeはGCPを、Amazon PrimeはAWSを利用している。

さらに、NetflixのAWSの利用は、よく知られているところだ。

メルカリだってAWSを利用しているんだぜ。

Maicrosoftはとても良い感じになっていて。AzureはAWSを追従している。

「こころ」の言葉

本は、わりと通読している。

通読の良い点は、思い出したように再読したとき、以降、肩の力を抜いて読めるところにある。

パラパラめくって、目の止まったところだけ読むのもいい。そんな感想を持つことも出来る。

漱石の小説は、すべて読んでいる。ゆいいつの自慢である。

小説をめくると、「あ、この数行だけで、漱石のこだわりが読める」と思ったりもする。

いちばん繰り返し読んだ小説は「こころ」だネ。

漱石は、小説により文体がちがう。

「こころ」に限っては、前半と後半の文体がちがう。

後半は、暗く、深刻な文体になっている。

漱石は、ぎりぎりの言葉で書いている気さえする。

「ぎりぎりの言葉」感で言えば、宮沢賢治の詩にも同様の印象を持っている。

人によっては「それはウソだよ」という指摘をするかもしれないけれど、

ま、ぼくのばあい、それは「ぎりぎりの言葉」なんだよねぇ。

命令/データとオブジェクト

機能とデータを分けた場合と、一緒に処理される感じを確かめてみた。

前者では、機能(関数)にデータ(引数)を入れて、結果をアウトプットさせてみる。

Pythonにも様々な型がある。そして型はオブジェクトであり、それぞれにメソッドが用意されている。

後者では、リストに用意されているメソッドを使うことにする。

ともに、Value(ここではカレー)にマッチしたKey(2)を返すようにした。

# 命令(関数)とデータを別々にする

def key_output(food_list,food):
    key = 0
    for i in food_list:
        if i == food:
            return key
        key=key+1

a=['うどん','ラーメン','カレー','チャーハン']
b= 'カレー'

key_output(a,b)

2

# リストのメソッドを利用する

a.index('カレー')
2

Figureクラス

Pythonは、オブジェクト指向のプログラム言語だ。すべてオブジェクトと言っても言い過ぎではない。

命令とデータを別々に記述し、アウトプットする、いわゆる命令型に対し、

オブジェクト型なら、命令とデータをひもずけ、いっしょに書くことができる。

その背景には、コンピュータの記憶装置の発展が寄与していると言われている。

理解が進むにつれ、オブジェクトがとても、おもしろくなってくる。好きにもなってくる。

Pythonの有力なライブラリであるmatplotlibでグラフを描く場合、たとえば、以下のような記述がわかりやすい。


import matplotlib.pyplot as plt
import numpy as np
%matplotlib inline

x=np.linspace(1,10,10)

y1=x
y2=x**2

plt.plot(x,y1)
plt.plot(x,y1)

 


一方「Figureクラスからインスタンスを作り、さらにオブジェクトを作る」でもグラフが描ける。

グラフを複数作る場合、いくつもオブジェクトを作り、あとはplt.show( )するだけなので、こちらの方法が良いかもしれない〜

# インスタンスをつくる。
# キャンパスを作る。sketchのArt Boardみたいな。
fig=plt.figure(figsize=(8.0,8.0))

# インスタンスからfig.add関数を呼び出し、オブジェクトを作る
ax1 = fig.add_subplot(121) 
ax1.plot(x, y1)

ax2 = fig.add_subplot(122) 
ax2.plot(x,y2)
plt.show()

 

帰納に比重が移っていく

これからは、情報空間はますます広がっていく。

信用の質も変わっていく。

そして、もうひとつ気づいている点がある。

きのう演繹と帰納について書いた。

きょうは、「演繹から帰納に視点の比重が移ってきているかも知れない」という話に触れたい。

機械学習(AI)は、日を追って、そのアプリケーションが充実してきている。

Gメールのスパムの排除、(文字キーワードだけでなく)画像による検索、そして自動の文字起こしや翻訳など、そのアプリケーションは様々だ。

余談になるが、いままで、文字起こしや文字の読み上げ、自動翻訳はワンフレーズごと、といった感じだった。

しかしGoogle Assistantなら、今年中に、連続する発話に対応できるようになる。

当面、Android対応だが、その後、iPhone版も出るかもしれない。

この種の機械学習のカテゴリーは、たぶん、「推測」と「分類」に大別される。

これ、間違っているかも、ですけれど…

機械学習では、所与のデータが与えられ…それに適応するアルゴリズムや関数により、データが学習/訓練され(モデル化され)…あらたにインプットされるデータに対して「推測」「分類」がなされている…こんな感じだとおもう。

で(説明が、まだ、こなれていないけれど)機械学習は、いっそ帰納的と言っても良いのでは、と言ってしまいたいんだね、俺は。

「統計学は最強の学問である」という本は、とても興味深い。

著者は、機械学習を統計学の延長として位置づけている。

本書を読むと、統計というのも、演繹よりむしろ帰納的な印象を持つ。

いずれにせよ、機械学習も統計も、これからの最重要科目になっていくでしょう。

そもそも演繹、すなわち原因→結果というのは、個人のバイアスが大きくかかってしまっている。

(このへんは「ファスト&スロー」(ダニエル・カーネマン)に大いに啓蒙された)

みんながダマになって、同じというなら、演繹は有効かもしれないけれど、バラバラになっている現在、そして、なっていく将来、帰納の方が有用だとおもったりしているわけネ。

グラフの目盛り・グリッド

matplotlibの折れ線グラフなら、そらで描けるようになった。

けれど、横軸や縦軸の目盛りの数値、グリッドは、なかなか覚えられないよ〜

というわけで、これ備忘録であります。

import matplotlib.pyplot as plt
import numpy as np
x=np.arange(1,11,1)
y=[10,30,48,60,70,78,84,90,96,100]

#横軸の目盛りの数値
plt.xticks([1,2,3,4,5,6,7,8,9,10])

#縦軸の目盛りの数値
plt.yticks([10,20,30,40,50,60,70,80,90,100])

#グリッドを入れる
plt.grid()


# matplotlib
#ベルヌーイの定理(「ファスト&スロー 下」/ダニエル・カーネマン)

演繹と帰納

明治になり、西欧から不明な、いろいろなコンセプトが入ってきた。

先達たちは、漢語や仏教語から、当て字を創作した。

自由、民主は当て字である。科学、宗教だって同様である。

演繹など、キーボードで打たなければ、書くことさえ出来ない。

ちなみに演繹という言葉は(森鴎外の叔父である)西周の発案だったとおもう。

演繹は原因/結果の因果関係を考える手法だ。

ま、落語にある「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアプローチである。

それに対し、帰納は逆に、結果から原因を考察する。

つまり、相関関係(似ている感じや、違う感じ)を観察し、原因を考える手法である。

ベイスの定理は、帰納的な手法と言って良いとおもう。

たとえば、a、bふたつの袋の中に、それぞれ赤と青の異なる数の球が入っている。

観察者にはaかbどちらの袋から球を抽出したか知らされていない。

そのうえで、青、青、赤、青の球が抽出された結果を知らされる。

さて、この結果が反映する「a、bそれぞれの袋である」確率は、どのくらいか。

高校の数学では、サイコロを振って目の出る確率を求めるでしょう。

これは、サイコロを振る(原因)/いくつの目が出た(結果)から確率を得ている。

こちらは演繹的なアプローチ…だよね?

これで、良いっけ? もし間違っていたり、意見があったら、どしどし意見をください。