日露戦争講和会議の全権公使は、小村寿太郎である。日本の経済力や戦力を分相応にとらえ、開戦前から その引き際を熟慮していた司令部と同様、小村も現実的な感覚を持っていた。

引き際は、奉天会戦だった。勝利したにも関わらず、続行によるロシアの巻き返しを勘案し決断された。もし戦いを続行していたら、人的、経済的に消耗しきっていた日本の敗戦の可能性は高かった。

ポーツマス講和会議では、小村寿太郎はロシア側の主張を柔軟に取り入れた。樺太の南部は割譲されたものの、戦争賠償金は一切支払われなかった。

これに対し、当時の新聞各紙は日本の実力を過大評価し、講和締結の不服を書き立てた。民衆も不満を持ち、都内の多数の交番に放火する事件にまで発展した。いわゆる、日比谷焼き討ち事件である。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」には、実力を過大評価する日本の傾向は、この時に生まれたと書かれている。また、こういう記述もある。引用させていただく。

「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表としない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。

日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論じることがまれにあっても、いちじるしく内省を欠く論調になっていた。

新聞がつくりあげてこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ち込んでゆくための原体質を、この戦争報道のなかで作りあげ、
しかも新聞は、自身の体質変化をすこしも気づかなかった。」(坂の上の雲 七「退却」/ 新潮文庫)