(1)映像について

マーティン・スコッセシ監督の「沈黙」を観た。

はじまりの場面は普賢岳だ。噴き出る水蒸気の力強い構図は「羅生門」のオープニングの豪雨、「蜘蛛巣城」の老婆の深い霧を連想させる。スコッセシは黒澤監督の「夢」のなかで、ゴッホの役をやっているでしょう。スコッセシが生前の黒澤監督から知遇を得ていたことは間違いない。この冒頭のシーンは黒澤監督へのオマージュなのではないか。

水磔(すいたく)に張り付けられた信者たちの満潮の波に打たれる場面は、撮影の際に不測の事故が起きかねないような鬼気迫るものがあった。

小舟で五島列島に行き、浜辺沖から浜辺に上陸するロングショットの映像は印象的だった。

窪塚洋介、浅野忠信、小松菜奈は、いい顔をしているとおもった。イッセー尾形の評価も高いね。日本の役者の顔はレベルが高いなぁ。

 

(2)内容について

原作の「沈黙」を読んだのは、すいぶん前のことだ。

日本には大日信仰があり、けっきょく、日本のキリシタンは無意識に、ゼウス(神)を大日如来になぞらえていたのではないか。

そのような記述があったことを、おぼえている。

なので、映画を観るさいに、少なくとも、アメリカ人のスコッセシが、このへんをどう描くのか関心があった。

ところで、じっさいに映画を観ていて、小説を読んだときと違う感想を2つ持った。

以下のとおりである。

キリシタンのいた村は貧しかった。そして江戸幕府は、貧しい人たちを恐れていた。村から離散したり、一揆も困ったとおもうが、宗教やイデオロギーは人を多く集め、なおかつ団結させてしまう。島原の乱を経験した徳川家光は、それを恐れた。これが、まず1点目の感想。

二点目。はたして信仰や理念はどんなシビアな状況でも維持できるかという問題について。

映画の中では、キリシタンたちが踏み絵をこばみ、死刑にされていく場面がある。信仰や理念に殉死しているような印象を受けるが、果たして、これは人の素の姿だろうか。踏み絵をして死をまぬがれ、しかし後悔し、また同じことを繰り返すキチジローの方が、ほんらいの人の性ではないか。

ま、ここまで書くと、漱石の「こころ」の中から抜粋しないわけにはいかない。

「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいんです。だから油断が出来ないんです」