論語は孔子の言ったことばを弟子がまとめたと言われている。そして孔子は、中国の古代の伝説上の王、堯(ぎょう)や、舜(しゅん)の行ないを理想とした。

聖書もキリストの弟子によりまとめられたけれど、聖書は神さまのことばとされているでしょう。かつては、聖書のなかにのみ真理があるとされ、そこに書かれていること以外は認識の対象外だったし、聖書のことばと矛盾することを言うと、異端査問にかけられたりした。ガリレオ・ガリレイとかネ。

ま、論語にせよ、聖書にせよ、(読んだことはないけれど、たぶん)コーランにせよ、そこに書かれていることこそ真理であり、間違いはないとされていた。

話題作の「サピエンス全史」のページをめくった。「科学革命」の章で指が止まった。そして、その章のみ再読してみた。科学革命以前の知識と、その後の知識体系の違いについて触れられている。その特徴のひとつは、こうである。

科学革命以降は、いかなる概念も、考えも、説も普遍的ではない。誤りであるという判断が受け付けられている。(以上、要約)

歴史的な大きな流れを書いてしまったけれど、身のまわりのことも、いま、これと似た流れのなかにいると思うんだ。

従来は教科書や新聞など、お手本があった。これらを疑わなかったでしょう。でも現在も、これからも、過ちあるという前提で、ゆるしたり、ゆるされたりしていくでしょう。

過ちがあるので、たとえば間違ったときは、すぐに認めるといったリスク管理が、もてはやされている。

そもそも、これからは価値観が「逆立ち」していくと思ったりしているわけで。

いままでは頭の良いひとが、おうおうにして、もてはやされてきたけれど、これからはバカが優位になっていく、とかネ。バカというとコトバに語弊があるなら、ま、素直な人でもいいや。