じかんをみつけて漱石の「こころ」をよみかえしてみたい。そして、たしかめてみたい。かくにんのための再読である。

そのひとつ。文体について。「こころ」は、ありし先生の海水浴場の描写からはじまる。描写はもちろん、ほかのシーンにもある。便宜上、さいしょのシーンに決めてしまおう。決め打ちしたほうが、らくちんだから。

後半は先生から主人公にあてられた長い手紙だ。そのなかのキモになるのが、こころの様相がくるくるかわる先生の独白だ。このぶぶんは、なんど読んでも、みごとだとおもう。

それでは、前者の海水浴の叙情的なシーンと、後者の先生のこころの様相を描いた部分は、どういう文体になっているのか。おなじスタイルだろうか。もしそうなら、やはり漱石の文体は幅広いことが書ける文体といえるのではないか。すくなくとも江戸時代以前には、日本にはこういう文体がなかったのではないか。

再読により、もうひとつ、たしかめたいこと。それは、やはり後半の幾重にも重なるこころの様相だ。

非難しているこころは、個人的な経験(Kとの一件)にもとづいている。それに対して、非難されているこころは、とらえきれない全体からきている。ちがう様相のこころが、おなじ人間(先生)のなかで対話している。

Kは、おおきな世界観をめざしていた。それについて先生は「お前はバカだ。完全なこころはない。ひとのこころは、ちょっとのことでも、たえず動くものだ」といって非難している。あ、これ、正確なことばじゃないよ。そういう内容であるとおもってください。

で、ふと、おもったのだけれど、

後半の、どこかから聞こえてくる声は、生前のKの声ではないのか。あるいはK的な声。もうすこし刺激的なことばを選べば、Kの復讐みたいな。

以上、「こころ」の文体と、こころの二重性についてでした。