「春と修羅」

 

「旧約聖書」の中で、アダムとイヴは、ヘビにそそのかれ、禁断のリンゴを食べてしまう。以来、ヤハウェイの逆鱗に触れ、ひとは原罪を負うことになる。では原罪とは何か。ユダヤ教でもキリスト教でもないので知る術もない。ちなみに、オレは仏壇のウルシ塗り職人の息子である。

仏教的には自我は存在しないことになっている。なぜなら自我は自立して存在していないから。ほかに依存していて自我という名目があるだけ。といっても、なんやら、分からんでしょう。じつは書いているオレも、うまく言い表すことができない。

音楽や絵画の世界では、天才の代名詞があるとおもう。では詩や小説の世界では、どうだろう。ぱっと思いつくのは宮沢賢治なんだなぁ。「春と修羅」の序文の出だしは、仏教的な自我の有り様(もっとダイレクトに言うと「空」だけれど)見事に表現していると思う。すげっ !、

わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!