AI時代に大切なこと。

漱石は講演の中で、たとえ裁判で裁かれても、本人がストーリィを語り、また、それが誰かに読まれることで救われると言っている。「こころ」の後半、先生は(裁判で裁かれているわけではないけれど)じぶんの罪を内省し、それを手紙にしたためている。そして主人公の私に送っている。

漱石の小説には「こうしたら、いいよ」的なセンテンスは、あまり見当たらない。ただし「虞美人草」(もしかしたら「彼岸過迄」かもしれない)のなかで、「刹那的な美が救いになる」ということを登場人物に言わせている。「草枕」では全体を通して、そのようなことが伝わってくるかもしれない。

さて、正月休み中にみた「万引き家族」である。

後半になり、観賞者は、お父さんとお母さんが逃亡犯であることを知るところとなる。逮捕されたお父さんお母さんに対して、検察官は紋切型の取り調べをする。それに対して、お父さん、お母さんそれぞれがストーリィを語る。語りかけられているのは観賞者ということになる。前述の漱石の文脈から言えば、お父さんも、お母さんも観賞者に伝えることで救われている。

子どもたちは、お父さんお母さんに拾わてきている。海辺の場面、お母さんが娘を抱きしめる場面はジンと来てしまう。血のつながった家族よりむしろ、つながっていない家族の刹那的な思いの方が救いではないのか。そんなこともおもったりした。

とりわけ、これから、ふだん、僕たちが意識しないまま、AIが浸透していくのは間違いない。

ストーリィを語ること。そして、できれば、それを聞いてくれる(あるいは読んでくれる)人がいる。

ときには、刹那的なことはシステムを超越する。

これからこのことは、思った以上に大切なことになるとおもうぜ。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!