「司馬遼太郎」で学ぶ日本史(磯田道史)を読んでみた。司馬作品を読んで、ぼんやりしていたことがクリアになったところもあり、また、新しい知識を得たりもした。失礼ながら、以下、気になった章をまとめておきます。
1)歴史の影響を与えた4人の著述者
本書では、後世の歴史に影響を与えた歴史家を4人あげている。
まずは「太平記」の小島法師。「太平記」では南北朝の動乱が描かれ、楠木正成は南朝の英雄に押し上げられた。現在の皇室は北朝であるが、明治天皇の断裁から第二次世界大戦まで南朝が正統とされた。
ちなみに亡父を東京に招待し、行きたい所をたずねた際に、皇居にある楠木正成像をそのひとつとして、あげている。亡父は終戦までの約半年間、京都の舞鶴にて、志願兵として海軍で訓練している。
後世に影響を与えた歴史家の2人目は、頼山陽(らいさんよう)である。山陽が著した「日本外史」は、源平から徳川に至る武家の興亡がつづられている。武家が空気のように何の疑いもない江戸時代、じつは日本は天皇に治められてきたという視点は、明治維新の実現に寄与したと言われている。
歴史に影響を与えた3人目は徳富蘇峰、そして4人目が司馬遼太郎があげられている。
2)現在の始まりを織田信長にみる視点
司馬さんは、現在の社会の始まりを、「織田信長の生成過程」にみている。その触媒として斎藤道三がとりあげられている(「国盗り物語」)
大名の藩は「公儀」とも呼ばれる。それに対して、幕府は「大公儀」となる。織田信長は、その権力体「大公儀」(国家)を生み出し、幕藩制が誕生した。
明治維新では、その権力体が崩壊する一方、朝廷と結んだ勢力が幕藩に由来する官僚制などを引き継ぎ、明治政府が生まれた。
最後の帰結として、昭和の軍国国家(司馬さんの言うところの「鬼胎の国家」)が出来上がった。軍国国家は敗戦により壊れ、そして現在の社会に至る。
信長の権力体の子孫である我々は良い面と悪い面を持つ。
①何事にもとらわれない合理的な良い側面
②権力が過度に下の者に要求し、上意下達で動くという負の側面
3)時代の変革期には、超合理主義的な人が求められる。
本書(「司馬承太郎で学ぶ日本史」)では「花神」こそ、司馬作品の最高傑作と言っている。「花神」の主人公は大村益次郎。本書によると、長州の陸軍は、吉田松陰が言葉で表わし、高杉晋作が実行し、大村益次郎がその果実を受け取ったとされている。そして益次郎の後を継ぎ、明治の陸軍の元帥を長く務めたのが山縣有朋である。
司馬さんは戦車隊の元将校で、満州にて終戦を迎えた。もしソ連の参戦(ノモンハン事件)が早ければ、ソ連軍は南下して、満州にて、徹甲弾で戦車に串刺しにされ死んでいただろう、と司馬さんは述べている。
ノモンハンでは、日本陸軍は戦車同士の戦争を想定しておらず、そのため日本の戦車は装甲や性能が著しく劣っていた。なぜ、そのような不合理がまかり通ったのか。司馬さんは「花神」のエピソードにて、その理由を暗示させている。
「花神」では、益次郎はクールに描かれている。しかし同じ適塾出身の福沢諭吉(「福翁自伝」)によると、益次郎はある時から攘夷に、とち狂っていて、仲間をできるだけ近づけないようにしていたそうである。
司馬さんの小説を読んでいると、どうしても、それが史実のように思いがちだ。しかし、かなりストーリィは創作されているので、史実をつかむのではなく、司馬さんの(たとえば合理性を好み、ドグマや形式主義を嫌う)哲学みたいなものを勉強する感じが良いとおもう。
「非合理的な組織と化した日本陸軍をつくった非常に合理的な人物の邂逅ー。それが「花神」という傑作を生み出した原動力だと思います。」(P76)
4)江戸時代からの引き継ぎ。
江戸時代から明治に引き継がれた資本は少ないとおもう。ただし数字には現れない良質なものが引き継がれた。
(本書によると)それは多様な人材である。
江戸時代の各藩では多様な政策がとられた。教育熱心な藩があり、文化や技術に力を注ぐ藩もあった。そして、それぞれの藩からは、それに応じた人材が輩出された。明治維新により、中央にその良質な人材が集められることになった。
さらには、江戸時代の庶民の民度の高さ、正直が重視され公共心も高く、権威にも充実だった。
一方、江戸時代からの負の遺産も残る。それは東アジアを蔑視する傾向である。