ビジネスについて書かれている本は多々ある。
その中でも経営者の発言がまとめられている本も多い。
時にはベストセラーにもなる。
けれど、その経営者には少しも近づけない。
読者は知識を得ようと読んでいても、一方、その経営者は自身の体験を語っているからだ。
話は変わる。
哲学者のデカルトは「我思う、故に我あり」という言葉にたどり着いた。
つまるところ人間の理性の存在は確かである。個人的に、そのようなニュアンスでとらえている。
近代ではヨーロッパのみならず、日本でも理性は普遍的だとされている…よね?
ダライ・ラマの書籍を愛読している。
世界中にファンも多い。チベット仏教の布教を目指していたなら、これほど広がっていなかっただろう。
ダライ・ラマは(深いレベルではつながっているかも知れないけれど)仏教と倫理について、分けて語られている。
やさしさ、思いやり、忍耐といった倫理観は人間の本質である。仏教は、それを促すために有効である視点。
さらに、その倫理観の成長は人間の本質であるというユニークな捉え方がなされている。
デカルトをはじめ理性による、いわゆる啓蒙主義は、いろいろな問題点を解消させていったし、これからも期待できる。直近では、メッセンジャーRNAワクチンによるコロナ感染の抑制がある。
「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー)によると、時代を追うごとに暴力死は減少している。ここでは詳細は書かないけれど、暴力死の減少も啓蒙主義の成果と言える。しかし一方では、
本書でデータによる暴力死の減少が示されているにも関わらず、なんとなく暴力が増えている感覚があるのは、理性による「冷たさ」「割り切り」に関係するのではないだろうか。
ダライ・ラマの示すところの人間の本質、やさしさ、思いやりといった倫理観が、理性と両輪のように発達して来なかったと、まぁ、そう思うわけ。
ところでダライ・ラマの書籍を慎重に読むと、知識レベルでさえ、その深さに知れたような気になる。
だが一方で、やさしさ、思いやりといった(ふつうすぎるくらい)シンプルな言葉なのに、とても近づけない感じもある。
それは、ダライ・ラマの体験に読者が近づけないことにある。
ここで言う体験とは、冒頭に触れた経験者の実体験ではなく、猊下が数十年の間、毎日、数時間続けてこられた瞑想について言っている。
「データは21世紀の石油である」というキャッチーなフレーズがある。
それは、そうなんだけれど、啓蒙主義の流れをくむデータ化は、共有できることが大きな特徴とも言える。
一方、体験は、その人限りのものである。
このへんの認識が重要だと思うねぇ。