問題提起はコピーライターブームに始まる。
僕は少なからずそのブームに影響されてコピーライターになったとおもう。
とりわけ糸井重里さんの影響は大きかった。
とうじ様々なメディアに、顔と名前が売れていて、「宝島」「広告批評」のロングインタビューを夢中になって読んだっけ。「広告批評」の島森路子のロングインタビュー集をあらてめて読んでみると、島森さんのインタビューのうまさが実感できたりする。
ところでコピーライターブームって、いつだろう?
それをたしかめるために、毎年発刊されている「コピー年間」を可能な範囲でページをめくってみた。70年代後半から80年代の前半、あきらかにコピーがきらめいていて、で、この期間をコピーライターブームと認定した。
81年(だったかな?)の年鑑のスローガンは「コピーは僕だ」で、鼻息のあらさが、うかがえた。しかし、やはりなんだか自信がなさそうで「コピーは僕じゃない」というニュアンスが伝わってきた。
はたして「コピーはそのコピーライター限りで、ほかには書けないのだろうか」という、まぁ、そういう問題提起がおのずと喚起される。
その一方で、AIが今年ブレークするーを迎え、これからさまざまな分野で応用されてゆく。GTP3ではネーミングもキャッチコピーも作成される。そうなると当然「コピーは僕じゃなく、AIでも書けるのではないか」という問題意識が芽生えてくる。
それに対して以下のような仮説を立てている。
AIを利用してコピーや文章を書いてみる。そして、それでは出来ないことが「コピーは僕である」という仮説だ。このへんは個人のクリエイティヴから心の存在まで、けっこう哲学的な事がらになってくる気がしている。