東芝はどうなっていくんだろう。
かつて東芝と取引口座があった、現在休眠中の鶴巻事務所の主宰者にとって、やや気になることがらである。
独立するまえにも東芝の仕事はしていた。
パソコン、コピー機、ファックスといったOA機器は、独自の販売チャネルをもっていた。それぞれの販売チャネルのノウハウや情報は共有されていない。これではイカンということで、各事業部でそれを共有できるように、情報誌を製作した。その取材と執筆をおこなっていた。
鶴巻事務所としての仕事は、 それとは関係なく、偶然である。
さいしょの仕事は東芝関連会社の社史を書いた。1年以上かかった。執筆にあたっては、とりあえず、いままでの資料を担当者の方に出していただいた。
前置きが長くなってしまった。歴史について、かんがえてみたかったのである。
社史というのは、資料を読んで、じぶんで理解できた範囲で構成し、書かざるをえない。つまり提出されてきた資料に依存している。でも、これはどうなんだろう? たまたま資料はないけれど、重要な出来事もあったかもしれないし、取り組まれてきた仕事ひとつひとつ、社員ひとりひとりについて考えれば、とても網羅できているとはおもえない。
歴史小説というのがあるでしょう。主人公は、織田信長や豊臣秀吉といったヒーローたちの視点で描かれることが多い。たしかに読んでいて、わかりやすく、痛快である。ただし、歴史としては、単純化されすぎていやしないか?
ま、少数派だとおもうけれど、ちがうアプローチもある。
たとえばトルストイの「戦争と平和」である。主人公のピエールの個人的な歩みと、ナポレオン・ボナパルトの歴史的なロシア侵攻について触れられていて、カーボン紙の隅と隅が微妙に重なりあうように書かれていたようにおもう。
日本の小説でいえば、島崎藤村の「夜明け前」をおもいだす。こちらは幕末の参勤交代廃止と、それにより代々続いてきた中山道馬籠宿を廃止でざるを得なくなった青山半蔵の個人的歴史が描かれている。
なぜ、きょう、こんなことを書いたのかといえば、さいきんカズオ・イシグロの「日の名残り」を読み終えたからだ。よい小説だとおもうよ。