文をかく。それはどういう指向性をもっているのか。もともと文を書くひとは自意識が過剰なので、できるだけうまく書こうとおもうだろう。あるいは、文を書いてお金をもらうばあい、しらずしらずの先方のプレッシャにより、やはり、うまく書こうとおもうだろう。
では、真逆にして、なによりも、へたにかくことが大切だとしてみよう。これはどうだろう。
このばあい、さいしょからヘタというのではなく、うまく書こうとおもっていた人が、ヘタに書いていくという意味である。
いや、ヘタにかくというと、意識的にヘタに書くことになってしまう。そうではなく、ここでは書きっぱなしにするということにしよう。
このばあい、文章にまとまりがなく、誤字脱字が多く、おなじ言葉を繰り返すというような、いわゆる悪文になってしまう。
でも、これをいちばん気にしているのは、書くひと本人であり、読む人はそんことはこだわらないかもしれないよね。ネットでどんどん情報がながれている現在、そのかんじは、おおいにアリである。むしろ、きちんと書いた文章は、窮屈なかんじがして敬遠されるのではないか。
オッケー、親鸞のはなしをしよう。
親鸞はとうじ京都で学んだエリートだったろう。それが雪ぶかい越後に流され、農民たちを相手に念仏をといた。
そのときの親鸞の心境はどうだったろう。京都の学識を持った親鸞が、農民に説くときの、こころのおさまりはどうだったのか。じつは、これは親鸞が自己を解体させていったと言いたいのだけれど、とても、とても説明できないので、このへんで。