じぶんには能力も時間もないので、じぶんと、その対象のあいだに入ってくれる人がいると、とても、ありがたい。
ただし、ぼくのばあい、その中に入ってくれる人に、うるさい。
逆に、中に入っているひとが見つかると、こころおきない。
たとえば「論語」は渋沢栄一の解釈をまとめた「論語講義」を愛読している。
古代へ案内していただくのは、白洲正子だ。
レイモンド・カヴァーやレイモンド・チャンドラーの翻訳は、村上春樹による。
で、そうなると、「論語」のばあい、孔子の発話とされるものか、渋沢栄一の解釈に親しんでいるのか、その輪郭があいまいになっている。
同様に、古代なのか、白州さんの案内を楽しんでいるのか。
英文学を愛読しているのか、村上春樹の文章に触れているのか。
おそらく、小林秀雄なら「そんなことは、どうでもいいじゃないか、感動しているのは君だろう」なんて、おっしゃりそうだけれど、
ま、それはさておき、いままで、ずいぶん、たくさん書籍を読んできた。けれど、内容は、さっぱし思い出せなかったりして。
さて、読書って意味があるのかしらん、とおもう反面、考えるとき、判断するときの何かの厚みになっているような気がしなくもない。
最後に、話はそれるけれど、MIYAVIというミュージシャンがいる。
NewsPicsのインタビューによると、彼は、30過ぎてから渡米し、英語に触れていったらしい。
以下、インタビューからの引用である(彼の新著からの孫引きとなる)
通訳がいれば、会話はできる。細かいニュアンスも伝えられる。
でも、会話のグルーヴがなくなる。
会話とは人と人の感情を言葉に乗せたジャム・セッションだ。
オレ、この文に触れて「おー」とおもい、思わず膝をたたいたりしたわけ(これ、比喩ね。じっさいは、膝はたたかないぞ)。
で、そうおもうと、翻訳や解釈により読書することは、原書と読者のあいだのグルーヴ感の機会が損失されているのかもしれない。
要は、たどたどしくても良いから原書を読むことは、それはそれで意味があるかもしれないことを示唆していたりする。
ちなみに、村上春樹も翻訳のときに気をつけている点として、グルーヴ感をあげている。
もっとも、Miyaviはミュジシャンだし、村上春樹がこの言葉を使うのも、なんとなく自然だ。
ただ古典を原典で読むばあい、グルーヴ感は似合わない、とおもう。
このばあい、なんて言えばいいんだろう。本職のコピーライターとして、考えつづけていきますかねぇ。