取材について

きのう、「統計学が最強の学問である」という書籍について触れた。

オレでさえ、再読することで、だいぶ理解できる良書だとおもう。

ただし、続編となる「実践編」や「数学編」はお手上げだ。

後者を読むには、基礎的な数学や統計の知識が必要だ。

「教科書を読めない子どもたち」という本が話題になったそうな。

きのう、たまたまネットで、教科書を読めない子どもたちが、本書を読む場合、じぶんで分かるところだけつなげて理解するという記事を読んだ。

これって、なにも子どもに限ったことであるはずが、ない。

オレだって分からないものを無理やり理解しようとすれば、そうなってしまう。

先に触れた統計学の続編の書籍を読んだときも、そんな感触だわ。

前置きが長くなってしまった。取材について書いてみたかったんだ。

取材の仕事を受けても、じつは、取材者はその対象について理解してはいない。

おうおうにして、子どもたちが自分で分かるところだけ、つなげて理解するのと同様な状態となってしまう。

それでも仕事が成立していたのは、媒体、というとむつかしい言い方だね、要は新聞、雑誌、パンフレットという媒体が当然のようにあったから、なんだわ。

その存在の、おすそ分けにより(そこに載ることが前提になっているおかげで)理解できてなくても、フツーにカバーできていたわけネ。

たとえば、読売新聞の記事広告に載せることが決まっていることにより、取材者の理解云々には、目が行くことは、ない、と言ってしまおう。

インターネットは、ただのプロトコルだけれど、そのアプリケーションであるウェッブ、そしてSNSは、とても大きな影響を与えている。

ウェッブ誕生から25年たって、ようやく保守的な、政治や、医療・教育などにも影響を振るうようになった。

けれど、いちばん、真っ先に影響を受けたのは広告や出版なんだぜ。

影響どころか、打撃と言ってもいい。

打撃というと、その方向はマイナスを示すけれど、良いこともある。

それは、寄れば大樹の媒体に頼れなくなった取材者の無知が、無効になってしまったことだ。

それについて、考えてもいるけれど、きょうは、ここまでね〜

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!