専制と、データの扱い

一説によると、アジア的な特徴は3つほどあり、

そのひとつが、中央の専制政治が、一人ひとりでできないこと、たとえば灌漑用水工事などを普請することである。

それに対して西欧は「小さな簡単な問題から出発して、それをどんどん積み重ねていって、あらゆる関連性をつかんでいく」

というのは、『アジア的ということ』p239(吉本隆明著)の中での指摘だ。

(たしかに民主主義や、有志からお金を募る資本主義は、そんなイメージかもしれない)。

でも、げんざいのトランプ政権下のアメリカや、きょう保守党が選挙に勝ったらしいボリス・ジョンソン政権下のイギリスは、どうなんだろうと思わなくもない。

「小さな問題を積み重ねている」感はしないんだよねぇ、なんとなくサ。

個人的な好みで言えば、60年代から70年代のアメリカのカルチャーが好きです。

「大統領の陰謀」は何度も観ているし、UNIXの設計思想も好きである。

UNIXこそ、まさに、「小さな簡単な問題から出発して、それをどんどん積み重ねていって、あらゆる関連性をつかんでいく」設計思想なんですねぇ。

あ、話がずれてしまいました。

現在のトランプ政権やジョンソン政権は、専制政治的なのか、従来の「積み上げていく」的なものなのか、

その両者がせめぎ合っていいるのか、

あるいは、吉本さんが言うように、西欧の解体なのか、ま、いずれにせよ混乱しているみたい。

混迷していたと言われる60年代70年代のアメリカだって、現在にくらべれば、おおらかな感じだよねぇ。

日本のデータ問題、ね。

データを消去する会社の社員が、そのハードディクスを持ち出しヤフオクで売っていたというのは、失礼ながら、おもわず笑ってしまった。

また、デル・コンピュータ(かな?)のストレイジの破損により、どこかの行政機関のデータの復旧が困難らしい。

内閣府では、「桜を見る会」をめぐって、バックアップデータは公的文書ではないと言い張っているし。

個人的には、これからますます、ものの社会からデータ社会になっていくと思っていいる。

ここでいうデータ社会とは、ものより、データの方が上位になる社会ということである。

そして一方では、日本の「アジア的」な、中央の専制政治的な、官僚的なものが坐(ま)しましている。

ま、官僚的なものを保守できるなら、データを破棄しても、バックアップデータは公的文書としなくても、よろしいというわけ。

データを開放すると、保守的なものが崩壊するかもしれないし、意外に、そうでもないかもしれないけど、

ま、その点、専制的でありながらデータ中心の社会を目指す中国はユニークかもな。

気づいたことを、お気軽に。
公開まで、やや時間がかかりまーす!