福沢諭吉の著作は、当時、そうとう読まれたらしい。けれど、その影響を知る術を知らない。
司馬遼太郎は、漱石の「吾輩は猫である」は「福翁自伝」の文体の影響を受けている、という推測を立てている。
時系列には、「福翁」→「猫」となっている。しかし残念ながら「福翁自伝」は現代語版で読んでいるので、それについて、なんとも言えない。
「学問のすすめ」では、その改題にて、本書はアメリカの何とかという著作の、福沢による翻訳がかなり取り入れられているという説明がある。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」(だっけ?)は、有名なフレーズだ。
「福翁自伝」を読んでみると、これは、翻訳からではなく、福沢自体の信念から出た言葉である。
福沢は「数理であること」、そして(人の上に人を作らず的な)「自立すること」の大眼目を自身で、ちゃんと語ってらっしゃる。
もうひとつ「福翁自伝」について言えば、本書は、江戸末期から明治にかけての、福沢自身の体験に基づく、いわば歴史書になっている。
渋沢栄一の「論語講義」は、タイトルどおり、渋沢による論語の解説だけれど、「福翁」と同様、たとえば西郷隆盛に会ったエピソードなど、当時の感じが伝わる良書ともなっている。
歴史を描いたものと言うと、数量的なデータから導かれた書籍や、司馬さんのように大量の資料に当たり書いた書籍まで、様々である。
ただ、これはデータや、書く人の主観が媒介しているわけで。やはり、歴史上の人の言葉と直接向き合うのが好みだね、オレは。
ちなみに福沢諭吉の肖像は、一万円札に印刷されているし、渋沢栄一は次の一万円札の顔になる。あっ、夏目漱石は千円札だわ。
個人的な、歴史上の好きな人と重なっているんだなぁ…